読んでいた。
「いかんいかん」と先生はどなった。「もっと声を大きくして漢文は朗々《ろうろう》として吟《ぎん》ずべきものだ、語尾をはっきりせんのは心が臆《おく》しているからだ、聖賢の書を読むになんのやましいところがある、この家がこわれるような声で読め」
 教師はまっかな顔をして大きな声で読んだ、先生はだまって聞いていた。
「よしっ、きみは子弟を教育するんだ、とかくに今日の学校は朗読法をないがしろにするきらいがある、大切なことだぜ」
 先生はひょろ長いやせた首を伸ばして末座にちぢまっている千三を見おろした。
「きみ、ここへきたまえ」
「はあ」
「きみの名は?」
「青木千三です」
「うむ、なにをやるか」
「英漢数です」
「よしッ、これを読んでみい」
 先生は一冊の本を千三の前へ投げだした。それは黒茶色の表紙の着いた日本とじであった。標箋《ひょうせん》に大学と書いてある。
「これをですか」
 千三は中学校一、二年生の国語漢文読本をおそわるつもりであった、いま大学という書を見て急におどろいた。大学という本の名を知ったのもはじめてである。
「うむ」
「どこを読むのですか」
「どこでもいい」
 千三は中をひらいた。むずかしい漢字が並んだばかりでどう読んでいいのかわからない。
「読めません」とかれはいった。
「読める字だけ読め」
「湯《ゆ》……曰《いわく》……日《ひ》……新《しん》……日《ひ》……日《ひ》……新《しん》又《また》日《ひ》新《しん》」
 千三は読める字だけを読んだ、汗がひたいににじんで胸が波のごとくおどる。
「よし、よく読んだ」と先生は微笑して、「その意味はなんだ」
「わかりません」
「考えてみい」
 千三は考えこんだ。
「これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう」
「えらい!」
 先生は思わず叫んだ、そうして千三の顔をじっと見つめながら読みくだした。
「湯《とう》の盤《ばん》の銘《めい》に曰《いわ》く、まことに日に新たにせば日々に新たにし又日に新たにせん……こう読むのだ」
「はあ」
「湯はお湯《ゆ》でない、王様の名だ、盤《ばん》はたらいだ、たらいに格言をほりつけたのだ、人間は毎日顔を洗い口をすすいでわが身を新たにするごとく、その心をも毎日毎日洗いきよめて新たな気持ちにならなければならん、とこういうのだ、だがきみの解釈は字句において間違いがあるが大体の意義において間違いはない、書を読むに文字を読むものがある、そんなやつは帳面づけや詩人などになるがいい。また文字に拘泥《こうでい》せずにその大意をにぎる人がある、それが本当の活眼をもって活書を読むものだ、よいか、文字を知らないのは決して恥でない、意味を知らないのが恥辱だぞ」
 こういって先生はつぎの少年に向かった。
「日本の歴史中に悪い人物はたれか」
 いろいろな声が一度にでた。
「弓削道鏡《ゆげのどうきょう》です」
「蘇我入鹿《そがのいるか》です」
「足利尊氏《あしかがたかうじ》です」
「源頼朝《みなもとのよりとも》です」
「頼朝はどうして悪いか」と先生が口をいれた。
「武力をもって皇室の大権をおかしました」
「うん、それから」
 武田信玄《たけだしんげん》というものがある。
「信玄はどうして」
「親を幽閉《ゆうへい》して国をうばいました」
「うん」
「徳川家康《とくがわいえやす》!」
「どうして?」
「皇室に無礼を働きました」
「うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか」
「君には不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他に欠点があってもよい人物です」
「よしッ、それでよい」
 先生は、いかにも快然《かいぜん》といった、先生の教えるところはつねにこういう風なのであった、先生はどんな事件に対してもかならずはっきりした判断をさせるのであった、たとえそれが間違いであっても、それを臆面《おくめん》なく告白すれば先生が喜ぶ。
 千三はその日から毎夜先生のもとへ通うた、先生はまた地理と歴史の関係をもっとも精密に教えてくれた、それは普通の中学校ではきわめてゆるがせにしていることであった、中学校では地理の先生と歴史の先生とべつな人であるのが多い、そのために密接な二つの関係が分離されてしまうが、黙々《もくもく》先生は歴史の進行とともに地理を展開させた、神武《じんむ》以来|大和《やまと》は発祥《はっしょう》の地になっている、そこで先生は大和の地理を教える、同時に大和に活躍した人物の伝記や逸話等を教える。学生の頭にはその人とその地とその時代が深くきざまれる。先生は代数《だいすう》や幾何《きか》を教えるにもすべてその方法で、決してまわりくどい術語を用いたり、強いて頭を混惑させるような問題を提供したりしなかった。その英語のごときもい
前へ 次へ
全71ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング