う」
手塚はわらって奥《おく》へひっこんだ。
「待てッ」と千三は呼《よ》びとめようとしたがじっと下くちびるをかんだ。
「いま手塚と喧嘩をすれば母の薬をもらうことができなくなる」
かれの目から熱い涙がわきでた。人間の貴重な食料品! そのおけの中にどぶどろにまみれた球をつっこんで洗うなんてあまりの乱暴である。だが貧乏の悲しさ、かれと争うことはできない。
どれだけないたかしれない。かれはもうらっぱをふく力もなくなった。
「おれはだめだ」
かれはこう考えた、どんなに勉強してもやはり金持ちにはかなわない。
「おれと伯父さんは夜の目も寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ達の口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」
かれはがっかりして家へ帰った、かれは黙々《もくもく》先生の夜学を休んで早く寝床《ねどこ》にはいった。翌朝起きて町へでた。もうかれの考えは全然いままでとかわってしまった。かれは町々のりっぱな商店、会社、銀行それらを見るとそれがすべてのろわしきものとなった。
「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれ達の血と汗をしぼり取る鬼共だ」
その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。
「おれがチビだからみんながおれをばかにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをばかにしてるんだ」
かれの母はかれが夜学へもいかなくなったのを見て心配そうにたずねた。
「千三、おまえ今夜も休むの?」
「ああ」
「どうしてだ」
「ゆきたくないからゆきません」
かれの声はつっけんどんであった、母は悲しそうな目でかれを見やったなりなにもいわなかった、千三は夜具の中に首をつっこんでから心の中で母にあやまった。
「お母《かあ》さん堪忍《かんにん》してください、ぼくは自分で自分をどうすることもできないのです」
このすさんだ心持ちが五日も六日もつづいた、とある日かれは夕日に向かってらっぱをふきもてゆくと突然かれの背後《うしろ》からよびとめるものがある。
「おい青木!」
夕方の町は人通りがひんぱんである、あまりに大きな声なので往来の人は立ちどまった。
「おい、青木!」
千三がふりかえるとそれは黙々《もくもく》先生であった、先生は肩につりざおを荷ない、片手に炭だわらをかかえている、たわらの底からいものしっぽがこぼれそうにぶらぶらしている。
「おい、君のおけの上にこれを載《の》せてくれ」
千三はだまって一礼した。先生は炭だわらをおけの上に載せ、そのまま自分の肩を入れて歩きだした。
「先生! ぼくがかついでお宅《たく》まで持ってゆきます」
と千三がいった。
「いやかまわん、おれについてこい」
ひょろ長い先生のおけをかついだ影法師が夕日にかっきりと地上に映《うつ》った。
「きみは病気か」
「いいえ」
「どうしてこない?」
「なんだかいやになりました」
「そうか」
先生はそれについてなにもいわなかった。
黙々《もくもく》先生がいもだわらを載せた豆腐をにない、そのそばに豆腐屋のチビ公がついてゆくのを見て町の人々はみんな笑いだした。ふたりは黙々塾《もくもくじゅく》へ着いた。
「はいれ」と先生はてんびんをおろしてからいった。
「はい」
もう日が暮れかけて家の中は薄暗かった、千三はわらじをぬいで縁端《えんばた》に座った。先生はだまって七輪《しちりん》を取りだし、それに粉炭をくべてなべをかけ、七、八本のいもをそのままほうりこんだ。
「洗ってまいりましょうか」
「洗わんほうがうまいぞ」
こういってから先生はふたたび立って書棚を探したがやがて二、三枚の紙つづりを千三の前においた。
「おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ」
「なんですか」
「きみの先祖からの由緒書《ゆいしょが》きだ」
「はあ」
千三は由緒書きなるものはなんであるかを知らなかった、でかれはそれをひらいた。
「村上天皇《むらかみてんのう》の皇子《おうじ》中務卿《なかつかさきょう》具平親王《ともひらしんのう》」
千三は最初の一段高く記した一行を読んでびっくりした。
「先生なんですか、これは」
「あとを読め」
「右大臣|師房卿《もろふさきょう》――後一条天皇《ごいちじょうてんのう》のときはじめて源朝臣《みなもとあそん》の姓《せい》を賜《たま》わる」
「へんなものですね」
先生は七輪の火をふいたので火の粉がぱちぱちと散った。
「――雅家《まさいえ》、北畠《きたばたけ》と号す――北畠親房《きたばたけちかふさ》その子|顕家《あきいえ》、顕信《あきのぶ》、顕能《あきよし》の三子と共に南朝《なんちょう》無二の忠臣《ちゅうしん》、楠公《なんこう》父子と比肩《ひけん》すべきもの、神皇正統記《じんのうしょうとうき》を著《あら》わして
前へ
次へ
全71ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング