くうちしおれてだまっていた、そのまっさきに木俣ライオンが長い旗ざおをになっていた、旗には「浦和に正義なし」と大書せるものがあったが、小原の強硬《きょうこう》な忠告によってそれをまくことにした、かれらはいずれもいずれも暗涙にむせんで歯をくいしばっていた。
「たのむぞ木俣、なあおい」
 小原はライオンの肩をたたいてしきりになだめると、木俣はもうねこのごとく柔順になって、おわりにはひとり群をはなれて人陰でないていた。
 純粋|無垢《むく》な鏡のごとき青年、澄徹《ちょうてつ》清水《しみず》のごとき学生! それは神武以来任侠の熱血をもって名ある関東男児のとうとき伝統である。この伝統を無視して正義を迫害した政党者流に対する公憤は神のごとき学生の胸に勃発《ぼっぱつ》した。
 かかるさわぎがあろうとは夢にも思わなかった久保井校長は、五人の子と夫人と、女中とそれから八十にあまるひとりの老母と共にあらわれた。
「やあ、これは……」
 かれは両側に整列した生徒を見やって立ちどまった。生徒はひとりとして顔をあげ得なかった、水々とした黒い頭、生気のみなぎる首筋《くびすじ》が、糸を引いたようにまっすぐにならぶ、そのわかやかな胸には万斛《ばんこく》の血が高波をおどらしている。
 校長はほっ[#「ほっ」に傍点]として立ちどまったまま動かない。かれはなにかいおうとしたが涙がのどにつまっていえなかった。かれは全校生徒がかくまで自分を慕《した》ってくれるとは思わなかった。
 生徒はやはりなんにもいわなかった。かれらはこの厳粛な刹那《せつな》において、校長と自分の霊魂がふれあったような気がした。
「ありがとう、どうもありがとう」
 校長の口からこういう低い声がもれた。実際校長の心持ちは千万言を費やすよりもありがとうの一語につきているのであった、かれはいま九百の青少年から人間としてもっとも美しい精霊を感受することができたのであった。
 かれはこういってから老母の手をとってなにやらささやいた。老母は雪のような白髪頭《しらがあたま》をまっすぐに起こして一同を見まわした、その気高くきざんだ顔のしわじわが波のようにふるえると、あわててハンケチをふところからだして顔にあてた。
 こらえこらえた悲しみは大河の決するごとく場内にあふれだした。ライオンはおどりでて叫んだ。
「やれッ」
 一同は校歌をうたいだした。
 いつ先生が汽車に乗ったか、乗ったときにどんな風であったか、それをつまびらかに知ってるものはなかった、一同がプラットホームへ流れでたときにはや汽車が動きだした。
「久保井先生万歳」
 熱狂の声が怒濤《どとう》のごとく起こった。
 窓から半身をだした校長の顔はわかやかに輝いた。かれは両手を高くあげて声のあらんかぎりに叫んだ。
「浦和中学バンザアイ」
「久保井先生バンザアイ」
 もう汽車は見えなくなった、生徒はぞろりぞろりと力なく停車場をでた。
 ちょうど汽車が動きだしたとき、ひとりの少年が大急ぎでやってきた、改札口が閉鎖されたのでかれはさくを乗り越えようとした。
「いけません」
 駅員はかれをつきとばした。かれはよろよろと倒れそうになって泳ぐように五、六歩しざった、そうしてやっと壁に身体《からだ》をもたらして呼吸《いき》をきらしながらだまった、その片手は繃帯《ほうたい》にまかれて首からつられてある。彼の胸があらわになったときその胸元もまた繃帯されてあるのが見えた。
 かれはだまって便所と倉庫らしい建物のあいだへでた、そこには焼きくいの柵《さく》が結われてある、かれはそこに立って片ひじを柵においた、青黒い病人じみた顔は目ばかり光って見えた、帯がとけかけたのも、ぞうりのはなおが切れたのもいっさいかれは気がつかぬもののごとく汽車を見つめていた。
 万歳万歳の声と共に校長の顔があらわれたときかれはじっと目を校長に据《す》えた。かれの胸はふるえかれの口元は悲痛と悔恨にゆるみ、そうしてかれの目から大粒の涙がこぼれた。
 かれは阪井|巌《いわお》である。
 汽車が見えなくなったときかれはようやくさくをはなれて長い溜《た》め息《いき》をついた。それからじっと大通りの方を見やった。そこには学校の友達が波のくずれるごとく、帰りゆく、阪井は顔をたれてしずかに歩いた。
 とだれかの声がした。
「生蕃がいる」
「阪井のやつがきている」
 少年達の目は一度に阪井にそそがれた、阪井は棒のごとく立ちすくんだ。
「やい生蕃」
 まっさきにつめよったのはライオンであった。
「やい」
 阪井はだまっている。
「きさまはなにしにきた」
「久保井先生に用事があってきたよ」と阪井はやはり顔もあげずにいった。
「きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの面《つら》さげてやってきたんだ」
「…………」
「おい
前へ 次へ
全71ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング