、犬でも畜生《ちくしょう》でも恩は知ってるよ、おれはずいぶん不良だが校長先生の恩だけは知ってるんだ、きさまは先生をおいだした、犬畜生にもおとるやつだ」
「…………」
「きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱だぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか」
「やっちまえやっちまえ」と声々が叫んだ。かれらはいま五分前に先生と悲しい別れをした、満々たる憤怒と悲痛はもらすこともできずに胸の中でうずまいている、なにかの刺激あれば爆発せずにいられないほど血潮がわき立っている。それらの炎々《えんえん》たる炎《ほのお》はすべて阪井の上に燃えうつった。
「やれやれ」
「制裁制裁」
 激昂《げっこう》した声は刻一刻に猛烈になった。人々は潮のごとく阪井に向かって突進した。
「なぐってくれ!」
 いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に座った。
「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえ達に殺されれば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生にちがいない……」
 繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあとをそのままの髪《かみ》の毛はところどころ焼けちぢれている、かれは眉毛一つも動かさない。
「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」
 ライオンはほうばのげたのまま、かれの眉間《みけん》をはたとけった。阪井はぐっと頭をそらして倒れそうになったがじっと姿勢をもどして片手を大地からはなさない。
「畜生!」
「ばかやろう!」
「恩知らず」声々がわいた。
「なぐるのは手のけがれだ、つばをはきかけてやれ」
 とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。
「ばかやろう!」
 最後に手塚がつばをはきかけた。
「手塚、おまえまでが」
 巌はじっと手塚を見詰めたので手塚は人中へかくれた。
「さあ帰ろう」とライオンがいった。「最後にのぞんで足であいつの頭をなでてやろう、さあみんな一緒《いっしょ》だぞ、一! 二! 三!」
 げたの乱箭《らんせん》が飛ぶかと思う一|刹那《せつな》。
「待ってくれ」
 はらわたをえぐるような声と共に柳は巌の身体《からだ》の上にかぶさった。
「待ってくれ、阪井は火傷《やけど》をしてるんだ、あやまりにきたものをなぐるって法があるか、火傷をしてるものを撲《なぐ》るって法があるか」
 つるが病むときには友のつるが翼《つばさ》をひろげて五体を温めてやる、ちょうどそのように柳はどろやつばによごれた阪井の全身をその胸の下に包み、きっと顔をあげて瞋恚《しんい》に燃ゆる数十の目を見あげた、その目には友情の至誠が輝き、その口元にはおかすべからざる勇気があふれた。
「なぜ阪井をなぐるか、なぐったところで校長がふたたび帰ってきやしない、今日《きょう》はぼくらが泣きたい日なんだ、先生にわかれて一日泣くべき日なんだ、人をなぐるべき日ではない、阪井だって……阪井だって……先生を見送りにきたんじゃないか、……諸君、帰ってくれたまえ、なあ阪井君も帰れよ、諸君帰ってくれ、阪井帰れよ、諸君……阪井……」
 柳はまっさおになって歎願するように一同にいった。もうだれも手をくだそうとするものもなかった。かれらは凱歌《がいか》をあげた、そうしてげたをひきずりひきずりがらがら引きあげた。
 あとに残った柳は、屈辱と悲憤にむせんでいる阪井の頭や背中のどろやつばをふいてやった。
「さあいこう」
 阪井はだまっている。
「どこかいたいか、えっ? 歩けないか」
 阪井はやはりだまっている。
「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、車でも呼ぼうか」
 手を取ってたすけ起こそうとする柳の手をぐっとにぎって阪井は目をかっとあいた。
「柳、ゆるしてくれ」
「なにをいうんだ、過去のことはおたがいにわすれよう」
「おれはおまえに悪いことばかりした、それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた」
「そんなことはどうでもいいよ、さあいこう」
 柳は阪井を強《し》いて立たした、ふたりはだまって裏通りへでた。
「おれはなあ柳」
 阪井は感慨に堪《た》えぬもののごとくいった。
「おれは今日《きょう》から生まれかわるんだぞ」
「どうしてだ」
「おれが今までよいと思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ」
「それはどういうことだ」
「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、なにもかもおれは悪いことをして悪いと思わなかったのだ、親父《おやじ》はおれになんでも学校で一番強い人間になれというだろう、だからおれは喧嘩をした、活動を見ると人を斬《き》ったり
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