れはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は早くもかれの胴体をかかえた。
「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。
「きさまはおれを殺しにきたのか」
「助けにきたんだ」
 覚平は猛太と巌を左右にかかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。
 当直の人々や近所の人々によって火は消されたが、室内の什器《じゅうき》はほとんど用をなさなかった。重要な書類はことごとく消失した。
 人々は窓の外に倒れている猛太父子を病院に送った。覚平は人々とともに消火につとめた、さわぎのうちに夜がほのぼのと明けた。
 町は鼎《かなえ》のわくがごとく流言蜚語《りゅうげんひご》が起こった。不正工事の問題が起こりつつあり、大疑獄《だいぎごく》がここに開かれんとする矢先《やさき》に役場に放火をしたものがあるということは何人《なんぴと》といえども疑わずにいられない。甲《こう》はこういう。
「これは同志会すなわち役場派の者が証拠《しょうこ》を堙滅《いんめつ》させるために放火したのである」
 乙《おつ》はこういう。
「役場反対派すなわち立憲党のやつらが役場を疑わせるために故意に放火したのだ」
 色眼鏡をもってみるといずれも道理のように思える。だが多数の人はこういった。
「猛太父子が一命を投げだして消火につとめた処《ところ》をもってみると、役場派が放火したのではなかろう」
 こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口をきわめて称讃した、それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。
 半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌はなんにも知らなかった。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も繃帯《ほうたい》されているのに気がついた。
「目がさめて?」
 母の声が枕元《まくらもと》に聞こえた、同時にやさしい母の目がはっきりと見えた、母の顔はあおざめていた。
「お父《とう》さんは?」と巌がきいた。
「そこにやすんでいらっしゃいます」
 巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、ちょうど並《なら》んだ隣の寝台に父は繃帯した片手を胸にあてて眠っている、ひげもびんも焼けちぢれてところどころ黒ずんでいるほおは繃帯のあいだからもれて見える。
「お父さんはどんなですか」
「大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ」
「それはよかった」
 巌はこういってふたたびつくづくと父の寝顔を見やった。
「これがぼくのお父さんなのかなあ」
 ふとつぶやくようにこういった。
「なにをいってるの?」と母は微笑した。
「いや、なんでもありません」
 巌はだまった、かれの頭にはふしぎな疑惑《ぎわく》が生じた。これがはたしてぼくの父だろうか。わが身の罪を隠蔽《いんぺい》するために役場を焼こうとした凶悪な昨夜の行為! それがぼくの父だろうか。
 かれは幼少からわが父を尊敬し崇拝していた、学識があり胆力があり、東京の知名の士と親しく交わって浦和の町にすばらしい勢力のある父、正義を叫び人道を叫び、政治の覚醒を叫んでいる父!
 実際かれはわが父をゆいつの矜持《きょうじ》としていたが、いまやそれらの尊敬や信仰や矜持《きょうじ》は卒然としてすべて胸の中から消え失せた。
「お父さんは悪い人だ」
 かれは大声をだしてなきたくなった。かれにはなにものもなくなった。
「悪い人だ!」
 いままで父に教えられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように思えた。
 焼けてちぢれたひげがむにゃむにゃ[#「むにゃむにゃ」に傍点]と動いて、口がぽっかりあいて乱ぐいの歯があらわれたかと思うと猛太は目をぱっちりと開いた。父と子の視線が合った。
「おう、目がさめたのか、どうだ、痛むか」
 父は起きなおっていった。
「なんでもありません」と巌は冷ややかにいった、父は寝台を降りようとして首につった繃帯を気にしながら巌の寝台へ寄りそうた、そうして心配そうな目を巌の顔に近づけた。
「元気をだせよ、いいか、どこも痛みはしないか、苦しかったら苦しいといえよ」
 巌はだまって顔をそむけた、苦しさは首をのこぎりでひかれるより苦しい、しかしそれは火傷《やけど》の痛みではない、父をさげすむ心の深傷《ふかで》である。この世の中に神であり仏であり正義の英雄であると信じていたものが一夜のうちに悪魔《あくま》波旬《はじゅん》となった絶望の苦しみである。
 猛太父子の見舞いにとて来客が殺到した、町の人々はいろいろな物品を贈った、猛太は左の腕と左の脚を焼いたので外出はできなかった、かれは寝台の上に座って来客に接した。かれはこう人々にいった。
「せがれが命がけでやってくれたもんだからやっと消しとめましたよ」
 それからかれはせがれとふたりで役場の前を通ると火の光が見えたので、窓
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