をたたきこわして中へはいったがその時は重要書類が焼けてしまったあとであったのがなにより残念だといった。人々はますますふたりの勇気に感激した。そうして町会は決議をもってふたりに感謝状を贈ろうという相談があるなどといった。
「うそをつくことはじつにうまい」と巌はおどろいて胸をとどろかした。そうして町の人がなにも知らずに、役場を焼こうとした犯人に感謝状を贈るとはなにごとだろうと思った。
二、三日はすぎた、町のうわさがますます高くなった、だがある日町長が顔色を変えてやってきた。
「みょうなうわさがでてきたよ」とかれはいった。「放火犯人は役場員だというのでな」
「けしからんことだ」と猛太は叫んだ。
「警察の方では、どうもその方にかたむいているらしい。そこでだね、きみになにか心あたりがあるならいってもらいたいんだが」
「なんにもありやしない」と猛太はにがりきっていった。
「きみがいったとき、犯人らしいものの姿を見なかったかね」
「さあ」
猛太は下くちびるをかんでじっと考えこんだ。
「かれらがいうには、阪井が工事の帳簿を焼こうとしたんだとね、こういうもんだから、まさか親子連れで火をつけに歩きまわるやつもなかろうじゃないかと私は嘲笑《ちょうしょう》してやったんだ、それにしても疑われるのは損だからね、なにかくせものらしいものの姿でも見たのなら非常に有利なんだが」
「見た」と猛太は力なき声でいった。
「見た?」
「ああ見た」
「どんな風体の者だ」
「それは覚平によく似たやつだった」
巌は頭の脳天から氷の棒を打ち込まれたような気がして思わず叫んだ。
「ちがいますお父さん」
「だまっておれ」と猛太はどなって巌をハタとにらんだ、目は殺気をおびている。
「覚平か」と町長は身体をぐっとそらしたがすぐ両手をぴしゃりとうった。
「そうだ、それにちがいない。あいつはきみにうらみがあるから、きみに放火犯人の疑いをかけさせようと思って放火したにちがいない、例の工事問題が起こってる最中だから、きみが帳簿を焼くために火をつけたのだろうとは、ちょっとだれでも考えることだからな、いやあいつはじつにうまく考えたものだ」
「そうだ、ことによると立憲党のやつらが覚平を扇動《せんどう》したのかもしれんぜ」
「いよいよおもしろい」と町長はいすを乗りだして、「これを機会に根底から立憲党を潰滅《かいめつ》するんだね、そうだ、じつに好機会だ、わざわいが転じて福となるぜ、おい、早く退院してくれ」
「ちがいます」と巌《いわお》はふたたび叫んだ。「覚平はぼくらを救いだしてくれたのです、ぼくもお父さんも煙にまかれて倒れたところをあの人が火の中をくぐって助けてくれました」
「ばかッ、だまってろ、おまえはなんにも知らないくせに」と猛太はどなった。
「なんにしてもあいつがその場にいたということがふしぎじゃないか」と町長がいった。
「そうだそうだ」
町長は喜び勇んで室をでていった。あとで猛太はそのまま身動きもせずに考えこんだ。巌は繃帯《ほうたい》だらけの顔を天井《てんじょう》に向けたままだまった、父と子はたがいに眼を見あわすことをおそれた。陰惨な沈黙が長いあいだつづいた。
巌の目からはてしなく涙が流れた、かれはそれをこらえようとしたがこらえきれずにしゃくりあげた。
「お父さん」とかれはとうとういった。父はやはりだまっている。
「お父さん、あなたはぼくのお父さんでなくなりましたね」
「なにをいうか」と父はどなった。
「お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あなたはぼくに義侠ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪におとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった」
「生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの身体《からだ》じゃない、同志会をしょって立ってるからだだ、浦和町のために生きてるからだだ、豆腐屋《とうふや》ひとりぐらいをぎせいにしても天下国家の利益をはからねばならんのだ」
「むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもって天下国家がおさまるでしょうか」
「ばかばかばか」と父は大喝した。そうして急いで室をでようとした。
「待ってください」
巌は痛さをわすれて寝台の上に這《は》いあがり片手を伸ばして父のそでをつかんだ。
「ちょっとまってください、お父さん、ぼくの一生のおねがいです」
「放せ、放さんか」と父は叫んだ。
「放しません、お父さん、たった一言いわしてください、お父さん、ぼくは不孝者です、学校を退学されました、町の者ににくまれました、それはねえお父さん、ぼくの考えがまちがっていたからです、お父さんはぼくがおさないときからぼくに強く
前へ
次へ
全71ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング