月がねぼけたように町の片側をうすねずみ色に明るくしていた。父の足元は巌が予想したほどみだれてはいなかった、かれは町の暗い方の側を急ぎ足で歩いた。
「どこへゆくんだろう」
巌はこう思いながら父と二十歩ばかりの間隔を取ってさとられぬように軒下《のきした》に沿《そ》うていった。父はそれとも知らずにまっすぐに本通りへ出て左へ曲がった。
「役場へゆくんだ」
この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に一朶《いちだ》の疑雲《ぎうん》がただようた。とかれはさらにおどろくべきものを見た、父は役場の入り口から入らずにしばらく窓の下にたたずんでいたがやがて軽々と窓わくによじのぼった、手をガラス窓にかけたかと思うと、ガラスがかすかに反射の光と共に動いた。父の姿はもう見えない。
「どうしたことだろう」
巌はあっけに取られたがすぐこう思いかえした。
「なにかわすれものをしたのだろう」
だがこのときかれはぱっと一閃《いっせん》の火光が窓のガラスに映《うつ》ったような気がした、そうしてそれがすぐ消えた。
「なぜ電灯をつけないんだろう」
ふたたび火光がぱっとひらめいた。ゆがんだような反射がガラスをきらきらさせた、それはろうそくの光でもなければガスの光でもない、穂末《ほずえ》の煙が黒みと白みと混合して牛乳色に天井《てんじょう》に立ちのぼった。
巌はわれをわすれて窓によじのぼり、奔馬《ほんば》のごとくろうかへ降りた。窓から南風がさっとふきこんだ、炎々《えんえん》たる火光と黒煙のあいだに父は非常な迅速《じんそく》さをもって帳簿箱に油を注いでいる、石油の臭《にお》いは窒息《ちっそく》するばかりにはげしく鼻をつく、そうしてすさまじい勢いをもって煙を一ぱいにみなぎらす、焔《ほのお》の舌は見る見る床板をなめ、テーブルをなめ、壁を伝うて天井を這《は》わんとしつつある。
巌はいきなり、そこにある机かけをとって床の上の火炎をたたきだした。
「だれだ」と父は忍び声にどなった。
「ぼくですお父さん」
「おまえか……なにをする」
「消しましょう」
「あぶない、早く逃げろ」
「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。
「危《あぶ》ない、早く早く、逃げろ」
ぱちぱちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの下をくぐって噴水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは昼のごとく反射した。
「もうだめだ、早く早く、下を這《は》え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這《は》って逃げろ」
「消しましょう」
と巌は三度いった。
「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」
「死んでもかまいません、消しましょう、お父《とう》さん」
「ばかッ、こい」
父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。
「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」
「なにを?」
父は手を放してよろよろとしざった。
「消してください、お父さん」
巌は炎《ほのお》の中へ飛びこんだ、かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、それから壁やたなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりさえぎりたたきのめし、ふみしだき、阿修羅王《あしゅらおう》が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかしゆくがごとくあばれまわった。だがそれは無駄であった。油と木材の燃ゆる悪臭と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。
「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。
「巌! どこだ、巌!」
父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。
「消して……消して……お父さん」
ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団《ふとん》などが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音が聞こえた。
「巌! 巌!」
父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
やっぱり答えがない。
猛太は仰天《ぎょうてん》した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床《ゆか》一面にひろがった、右を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井《てんじょう》には火竜の舌が輝きだした。
「巌!」
猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪《きょうあく》な三百代言でもなければ、不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。
かれは煙に巻かれて窒息《ちっそく》している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは爛々《らんらん》たる炎《ほのお》の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓《こうげい》がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然《かくぜん》とひとりの男の顔があらわれた。
「やあ覚平!」
か
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