「たのむぞ」
「やってくれ」
 声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じくジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン! 正《まさ》にこれ山雨きたらんとして風|楼《ろう》に満つるの概《がい》。
 犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に稀薄《きはく》になった、そうして双方歩み寄ってかぎ合った。多分かれらはこう申しあわしたであろう。
「この腕白《わんぱく》どもに扇動《せんどう》されておたがいにうらみもないものが喧嘩したところで実につまらない、シナを見てもわかることだが、英国やアメリカやロシアにしりを押されて南北たがいに戦争している、こんな割《わ》りにあわない話はないんだよ」
 赤は鹿毛《しかげ》の耳をなめると鹿毛は赤のしっぽをなめた。
 犬が妥協《だきょう》したにかかわらず、人間の方は反対に興奮《こうふん》が加わった。
「やあ逃げやがった」と三年がわらった。
「赤が逃げた」と二年がわらった。
「もう一ぺんやろうか」と細井がいった。
「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかなか勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。
 ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢にかんがみておたがいに和睦《わぼく》したのにきさまはなんだ」と鹿毛《しかげ》がいった。
「和睦《わぼく》もへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね」
「きさまが先に打ったじゃないか」
「いやきさまが先だ」
「さあこい」
「こい」
「ワン」
「ワンワン」
 すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の利鈍《りどん》にあらず、士気|旺盛《おうせい》なるものは勝ち、後ろさびしいものは負ける、とくに犬の喧嘩をもってしかりとする、犬のたよるところはただ主人にある、声援が強ければ犬が強くなる、ゆえに犬を戦わさんとすればまず主人同士が戦わねばならぬ。
 三年と二年! 双方の陣に一道の殺気|陰々《いんいん》として相《あい》格《かく》し相《あい》摩《ま》した。
「おい」と木俣は巌にいった。
「犬に喧嘩をさせるのか、人間がやるのか」
「両方だ」と巌は重い口調でいった。

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