うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の格闘《かくとう》が始まった。
 犬はもう憤怒《ふんぬ》に熱狂した、いましも赤はその扁平《へんぺい》な鼻を地上にたれておおかみのごとき両耳をきっと立てた、かれの醜悪《しゅうあく》なる面はますます獰猛《どうもう》を加えてその前肢《まえあし》を低くしりを高く、背中にらんらんたる力こぶを隆起してじりじりとつめよる。
 鹿毛《しかげ》はその広い胸をぐっとひきしめて耳を後方へぴたりとさか立てた。かれは尋常ならぬ敵と見てまず前足をつっぱり、あと足を低くしてあごを前方につき出した。かれは赤が第一に耳をめがけてくることを知っていた、でかれはもし敵がとんできたら前足で一撃を食わしよろめくところを喉《のど》にかみつこうと考えた。四つの目は黄金色《こがねいろ》に輝いて歯は雪のごとく白く、赤と鹿毛の毛波はきらきらと輝いた。八つの足はたがいに大地にしっかりとくいこみ双方の尾は棒のごとく屹立《きつりつ》した。尾は犬の聯隊旗である。
「やっしいやっしい」
 人間どもの叫喚《きょうかん》は刻一刻に熱した、二つの犬は隙《すき》を見あって一合二合三合、四合目にがっきと組んで立ちあがった。このとき木俣の身体《からだ》がひらりとおどりでて右足高く鹿毛の横腹に飛ぶよと見るまもあらず、巌のこぶしが早く木俣のえりにかかった。
「えいッ」
 声とともにしし王の足が宙《ちゅう》にひるがえってばったり地上にたおれた。
「いけッ」
 二年生はこれに気を得《え》て突進した。
「くるなッ」
 巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木俣の寝業《ねわざ》をおそれたのである、木俣の十八番は寝業である。
「生意気な」
 木俣は立ちあがってたけりじしのごとく巌を襲《おそ》うた、捕えられては巌は七分の損《そん》である、かれは十七歳、これは十五歳、柔道においても段がちがう、だが柔道や剣術と実戦とは別個のことである。喧嘩になれた巌は進みくる木俣を右に透《すか》しざまに片手の目つぶしを食わした。木俣のあっとひるんだ拍子《ひょうし》に巌は左へ回って向こうずねをけとばした。
「畜生《ちくしょう》」
 木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもポケットに入った、一挺《いっちょう》の角柄《つのえ》の小刀がその手にきらりと輝いた。
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