ほしゅ》はいつもよりはやく目をさましそれから十|杯《ぱい》のつるべ水を浴び心身をきよめてから屋根にあがって朝日をおがんだ。これはいかなる厳冬といえども一度も休んだことのないかれの日課である。冷水によって眠気と惰気《だき》とをはらい、さわやかな朝日をおがんで清新な英気を受ける。
 だがこの日はいつもより悲しかった、全校生徒の歎願《たんがん》があったにかかわらず久保井校長の転任をひるがえすことができなかった。
 今日《きょう》は校長がいよいよ浦和を去る日である。
 大急ぎで朝飯をすましかれはすぐ柳の家をたずねた、柳もまた小原をたずねようと家をでかけたところであった。
「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔を染《そ》めて一抹《いちまつ》悲憤の気が顔にあふれていた。
「しかたがないよ」と小原はいった。ふたりは朝日の光が縦に流れる町を東に向かって歩いた。
「ところでね君」と小原はしばらくあっていった。
「今日《きょう》の見送りだがね、もし生徒が軽々しくさわぎだすようなことがあると、校長先生がぼくらを扇動《せんどう》したと疑られるから、この点だけはどうしてもつつしまなきゃならんよ」
「ぼくもそう思ったからきみに相談しようと思ってでかけたんだ」
「そうか、そうか」と小原はおとならしくうなずいて、「一番猛烈なのは三年だからね、ぼくは昨夜もおそくまで歩きまわって説法したよ、二年は君にたのむよ、いいか、どうしてもわかれなきゃならないものならぼくらは静粛に校長を見送ろうじゃないか」
「ぼくもそう思うよ」
「じゃそのつもりでやってくれ、だが三年はどうかな」
 小原はしきりに三年のことを心配していた、いずれの中学校でも一番|御《ぎょ》しがたいのは三年生である、一年二年はまだ子供らしい点がある、四年五年になると、そろそろ思慮《しりょ》分別《ふんべつ》ができる、ひとり三年は単純であるかわりに元気が溌剌《はつらつ》として常軌《じょうき》を逸《いっ》する、しかも有名な木俣ライオンが牛耳をとっている、校長転任の披露があってからライオンは十ぴきのへびを町役場へ放そうと計画しているといううわさを聞いた、また校長を見送ってからその足で県庁や役場を襲《おそ》おうという計画もあると聞いている。
 小原にはかれらの気持ちは十分にわかっていた、かれらがそんなことをせずとも、小原自身が
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