とく反射した。
「もうだめだ、早く早く、下を這《は》え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這《は》って逃げろ」
「消しましょう」
と巌は三度いった。
「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」
「死んでもかまいません、消しましょう、お父《とう》さん」
「ばかッ、こい」
父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。
「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」
「なにを?」
父は手を放してよろよろとしざった。
「消してください、お父さん」
巌は炎《ほのお》の中へ飛びこんだ、かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、それから壁やたなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりさえぎりたたきのめし、ふみしだき、阿修羅王《あしゅらおう》が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかしゆくがごとくあばれまわった。だがそれは無駄であった。油と木材の燃ゆる悪臭と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。
「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。
「巌! どこだ、巌!」
父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。
「消して……消して……お父さん」
ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団《ふとん》などが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音が聞こえた。
「巌! 巌!」
父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
やっぱり答えがない。
猛太は仰天《ぎょうてん》した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床《ゆか》一面にひろがった、右を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井《てんじょう》には火竜の舌が輝きだした。
「巌!」
猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪《きょうあく》な三百代言でもなければ、不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。
かれは煙に巻かれて窒息《ちっそく》している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは爛々《らんらん》たる炎《ほのお》の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓《こうげい》がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然《かくぜん》とひとりの男の顔があらわれた。
「やあ覚平!」
か
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