なりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃盗《せっとう》にしてしかも終身刑を受けけるなり。その才物《さいぶつ》なるは一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》たることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい哉《かな》、人道以外に堕落《だらく》して、同じく人倫《じんりん》破壊者の一人《いちにん》なりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄然《りつぜん》たりしが、さりながら、素《も》と鋭敏の性なりければ、能《よ》く獄則を遵守《じゅんしゅ》して勤勉|怠《おこた》らざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔悟《かいご》する処あり、遂《つい》に円頂黒衣《えんちょうこくい》に赤心《せきしん》を表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「島津政懺悔録《しまずまさざんげろく》」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その後《のち》は如何《いか》になりけん、消息を聞かず。

 三 空想に耽《ふけ》る

 かく妾《しょう》は入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『原人論《げんじんろん》』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを基《もと》として、日々|勉励《べんれい》したりしかど、やはり堂に昇《のぼ》らずして止《や》みたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如何《いか》にせん志《こころざし》を達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄|間《ま》もなくその空想は全く仇《あだ》となり、失望の極《きょく》われとはなしに堕落《だらく》して、半生《はんせい》を夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺悔《ざんげ》の隙《ひま》もいと切《せつ》なり。

 四 獄吏の真相

 妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく浮《う》かと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を認《したた》むる時などには、若き看守の好奇《ものずき》にも監督を名として監房に来りては、楽書《らくがき》などして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙汰《さた》とも覚えぬ振舞に渡りて、妾を弄《もてあそ》ばんとするものもあり、中には真実|籠《こ》めし艶書《えんしょ》を贈りて好《よ》き返事をと促すもあり、また「君|徐世賓《じょせいひん》たらばわれ奈翁《ナポレオン》たらん」などと遠廻しに諷《ふう》するもありて、諸役人皆|妾《しょう》の一顰一笑《いっぴんいっしょう》を窺《うかが》えるの観ありしも可笑《おか》しからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷顧《けんこ》を得んとて、私《ひそ》かに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑婆《しゃば》に優《まさ》る事数等にて、裁判の事など少しも心に懸《かか》らず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風邪《ふうじゃ》に冒《おか》され、漸次《ぜんじ》熱発《はつねつ》甚《はなは》だしく、さては腸|窒扶斯《チブス》病との診断にて、病監に移され、治療|怠《おこた》りなかりしかど、熱気いよいよ強く頗《すこぶ》る危篤《きとく》に陥《おちい》りしかば、典獄署長らの心配|一方《ひとかた》ならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の旨《むね》を打電したりければ、岡山にてはもはや妾を亡《な》きものと覚悟し、電報到着の夜《よ》より、親戚《しんせき》故旧《こきゅう》打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺屍《いし》引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数十日《すじゅうにち》を経て漸《ようや》く本監に帰りたる嬉《うれ》しさは、今に得《え》も忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛然《さながら》父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に罹《かか》りし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて斃《たお》るることもやと心配せしに、これすら漸《ようや》く回復して、遂《つい》には病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を喫《きっ》するほどなり。

 五 女史の訃音《ふおん》

 それより数日《すじつ》を経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪|悉《ことごと》く抜け落ち、薬罐頭《やかんあ
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