人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌《しの》がんばかりの隆盛を致せり。
 学校に通う途中、妾は常に蛮貊《わんぱく》小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵《ののし》られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時|妾《しょう》は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪《ばづ》を鼈甲《べっこう》に似たらしめたるにて、現今の護謨《ゴム》を象牙《ぞうげ》に擬《ぎ》せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何《いか》ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居《ききょ》振舞《ふるまい》のお転婆《てんば》なりしは言うまでもなく、修業中は髪を結《ゆ》う暇《いとま》だに惜《お》しき心地《ここち》せられて、一向《ひたぶる》に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪《き》りて前部を左右に分け、衣服まで悉《ことごと》く男生《だんせい》の如くに装《よそお》い、加《しか》も学校へは女生と伴《ともの》うて通いにき。近所の小供《こども》らのこれを観《み》て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐《おも》うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心《よごころ》の付き初《そ》めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪《そくはつ》の仲間入りはしたりける。

 二 自由民権

 十七歳の時は妾《しょう》に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客《ろんかく》多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄《はいしくめお》氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯《たわむ》れに物せし大津絵《おおつえ》ぶしあり。
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すめらみの、おためとて、備前《びぜん》岡山を始めとし、数多《あまた》の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣《たびごろも》、親や妻子《つまこ》を振り捨てて。(詩入《しいり》)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞《かすみ》もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
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 尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂《きょう》せる時なりければ、妾《しょう》の月琴《げっきん》に和してこれを唄《うた》うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花《いけばな》、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動《ふるま》いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和《やわ》らぐるに若《し》かずとて、八雲琴《やくもごと》、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜《よ》に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。

 三 縁談《えんだん》

 十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適《かな》わずとて、謝絶しければ、父母も困《こう》じ果てて、ある日|妾《しょう》に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂《う》き目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身《おんみ》とて何時《いつ》までか父母の家に留《とど》まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切《せ》めたる御言葉《おんことば》なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵《おんめぐ》みによりてもはや自活の道を得たれば、仮令《たとい》今よりこの家を逐《お》わるるとも、糊口《ここう》に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永《なが》く膝下《しっか》に侍《じ》せしめ給え、学校より得る収入は悉《ことごと》く食費として捧《ささ》げ参《まい》らせ聊《いささ》か困厄《こんやく》の万一を補わんと、心より申し出《い》でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止《さたや》みとなりにき。
 ああ世にはかくの如く、父兄に威圧《いあつ》せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何《いか》でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻《きざ》み付けられたる願いなりける。
 結婚|沙汰《ざた》の止《や》みてより、妾は一層学芸に心を籠《こ》め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切|懇到《こんとう》に教授しければ、
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