互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履《ふ》まんという。こは予《かね》てよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来|中江《なかえ》先生、栗原亮一《くりはらりょういち》氏ら頻《しき》りにわれに説きて、汝《おんみ》と葉石《はいし》と結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》にも喩《たと》うべくや、所詮《しょせん》は中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図《いちず》に妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水《ふくすい》争《いか》でか盆に復《か》えるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾《しょう》にその意なきことを謝《ことわ》りしかば、両氏も始めて己《おの》れらの誤解なることを覚《さと》り、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染《おさななじみ》の葉石の、今は昔互いに睦《むつ》み親しみつつ旦暮《あけくれ》訪《と》いつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐《おも》い、また今の葉石とて妾に対して露《つゆ》悪意のあるに非《あら》ざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒《じょうちょ》乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素《もと》より葉石との関係を知れる彼は、容易に諾《うべな》わず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋《あっせん》に余儀なくせられて、強《し》いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催《うなが》して止《や》まず、遂《つい》に軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。

 二 一家の出迎い

 それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途《と》につきしが、頓《やが》て三番港《さんばんみなと》に到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓《ざっとう》言わん方《かた》もなく、上陸して船宿《ふなやど》に抵《いた》れば、其処《そこ》にはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩《わず》らいしというに、かく健《すこ》やかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋《すが》られ、アア今日は芽出《めで》たき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟|甥姪《おいめい》を呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶《あいさつ》終りて、ふと傍《かたわ》らに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々《いろいろ》親切に世話しくれたり、彼はそも何人《なんぴと》なりやと尋《たず》ねしに、そは何《な》にをいう、弟|淳造《じゅんぞう》を忘れしかといわれて一驚《いっきょう》を喫《きっ》し、さても変れば変る者かな、妾《しょう》の郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛《わんぱくざか》りなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実《げ》に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜《むべ》ならずやなど笑い興じて、共に腕車《わんしゃ》に打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨《のぞ》まんため、岡山公園なる観楓閣《かんぷうかく》指して出立《いでた》つ。
 この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園《こうえん》にして、四時の眺《なが》め尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企《ほっき》者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨《こうがい》悲壮の新体詩をば、二面の洋琴《ようきん》に和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼《やく》して、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃《う》たれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》歓を尽して帰路につきたるは、頓《やが》て点燈頃《ひともしごろ》なりき。

 三 久し振りの帰郷

 かくて妾《しょう》は母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋《さび》しく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏《まと》われ、賑々《にぎにぎ》しくも帰れることよ。今昔《こんじゃく》の感|坐《そぞ》ろに湧《わ》きて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻《まぼろし》の如く、はては走馬燈《まわ
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