館に着きぬ。
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    第八 出獄


 一 令嬢の手前

 旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜《よ》はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜《かま》をかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処《そこ》に至りしに、令嬢の手前にて、薄茶《うすちゃ》のもてなしあり。更に自分にも一服との所望《しょもう》ありしかば、妾《しょう》は覚束《おぼつか》なき平手《ひらて》まえを立ておわりぬ。貧家《ひんか》にこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊《いささ》かながらかかる業《わざ》をも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来《じらい》かかる事に思わぬ日を経て、遂《つい》に同地の有志者|長井氏克《ながいうじかつ》氏らに送られつつ、鈴鹿峠《すずかとうげ》に至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出《い》づるの途中、植木枝盛《うえきえもり》氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花《ばら》の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。

 二 大阪の大歓迎

 大阪梅田|停車場《ステーション》に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震《ふる》うばかりなり。停車場《ステーション》に着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭《いと》わせられず、親類の者に扶《たす》けられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡《し》める声を振り絞《しぼ》りしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽《むせ》ばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別《わか》ちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗《たいき》に護られ、大阪市中を腕車《わんしゃ》に乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待《かんたい》せられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故|中江兆民《なかえちょうみん》先生、栗原亮一《くりはらりょういち》氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息《ひといき》入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠《よんどころ》なく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井《おもい》、葉石《はいし》、古井《ふるい》らの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪《ちゃくはん》せる同志と共に停車場《ステーション》まで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲《しののめ》新聞社に至らんとせるに、数万《すまん》の見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田|停車場《ステーション》もほとんど立錐《りっすい》の地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁《よう》せられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛《かろ》うじて東雲《しののめ》新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑《まんりょく》叢中《そうちゅう》紅一点《こういってん》ともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子《テーブル》の上に座せしめ、其処《そこ》にて種々の饗応《きょうおう》あり。終りて各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》旅宿に帰りしは早や黄昏《たそがれ》の頃なりけり。
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  第九 重井との関係


 一 結婚を諾《だく》す

 それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯《まつう》、妾《しょう》は原平《はらへい》に宿泊し、その他の諸氏も各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》旅宿を定め、数日間は此処《ここ》の招待、彼処《かしこ》の宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好《よ》きほどにて引き別るることとなり、妾も弥※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方《せんかた》なく帰宿せんとする折しも、重井|独《ひと》り帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得《え》も忘られず、今回
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