犠牲たらんと欲せしや、他《た》なし、啻《ただ》愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能《あた》わず。空《むな》しく獄裏《ごくり》に呻吟《しんぎん》するの不幸に遭遇し、国の安危を余所《よそ》に見る悲しさを、儂|固《もと》より愛国の丹心《たんしん》万死を軽《かろ》んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨《うら》むの意なしといえども、啻《ただ》国恩に報酬《ほうしゅう》する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転《うた》た潸然《さんぜん》たるのみ。ああいずれの日か儂《のう》が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
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[#地から5字上げ]明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
[#地から2字上げ]大阪府警部補 広沢鉄郎《ひろさわてつろう》 印

 かく冗長《じょうちょう》なる述懐書を獄吏《ごくり》に呈して、廻らぬ筆に仕《し》たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔《はし》る青春の人々は、くれぐれも妾《しょう》に観《み》て、警《いまし》むる所あれかし、と願うもまた端《はし》たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪《なみ》に弄《あそ》ばれて、深く深く不遇の淵底《えんてい》に沈み、果ては運命の測《はか》るべからざる恨《うら》みに泣きて、煩悶《はんもん》遂《つい》に死の安慰を得べく覚悟したりしその後《のち》の妾に比して、人格の上の差異|如何《いか》ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙《なんだ》の禁《とど》めがたきを奈何《いかに》せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲《なげう》たんとしたりしは、一《いつ》は名誉の念に駆《か》られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時|拙作《せっさく》あり、
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愛国《あいこくの》丹心《たんしん》万死《ばんし》軽《かろし》   剣華《けんか》弾雨《だんう》亦《また》何《なんぞ》驚《おどろかん》
誰《たれか》言《いう》巾幗《きんこく》不成事《ことをなさずと》  曾《かつて》記《きす》神功《じんごう》赫々《かくかくの》名《な》
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 五 不恤緯《ふじゅっい》会社

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