いると、何時《いつ》のまにか心地よく、柔《やわら》こう肌《はだえ》にそよぎ入って終《つ》いうとうと[#「うとうと」に傍点]と睡《ねむ》くなる。
 トントン……と二階|梯子《はしご》を響かせながら、酒膳《しゅぜん》を運んで来た女は、まアその色の黒きこと狸の如く、煤《すす》け洋燈《らんぷ》の明《あか》りに大きな眼を光らせて、寧《むし》ろ滑稽は怖味《こわみ》凄味《すごみ》を通越《とおりこ》している。愈《いよい》よ不可思議な大和めぐりだと自ら呆《あき》れる、しかしこの狸の舌はなかなかに愛嬌《あいきょう》の滑《なめ》らかだ。
 旅に乾いた唇を田舎酒に湿《しめ》しつつ、少し善《よ》い心地になって、低声《ていせい》に詩をうたっているスグ二階の下で、寂しい哀しい按摩笛《あんまぶえ》が吹かれている。私はこんな大和路の古い街にも住む按摩《あんま》が、奇妙にも懐かしく詩興《しきょう》を深く感じた、そこで、早々《そうそう》二階へ呼上《よびあ》げたら彼《か》れは盲人《めくら》の老按摩《あんま》であった。
 蒲団の上に足を伸《のば》しながら、何か近頃この街で珍らしく異《かわ》った話は無いか? 私が問うと、老|按摩《あんま》は皺首《しわくび》を突出《つんだ》して至って小声に……一週間前にしかもこの宿で大阪《おおさか》の商家《あきゅうど》の若者が、お定《さだま》りの女買《おんながい》に費込《つかいこ》んだ揚句《あげく》の果《はて》に、ここに進退きわまって夜更《よふ》けて劇薬自殺を遂《と》げた……と薄気味悪《わ》るく血嘔《ちへど》を吐く手真似で話した。
 私の顔色は青く、脈搏は嵩《たか》まったであろう。どこやらの溝池《どぶいけ》でコロコロと蛙《かわず》の鳴音《なくね》を枕に、都に遠い大和路の旅は、冷たい夜具《やぐ》の上――菜の花の道中をば絶望と悔悟《かいご》と且《か》つ死の手に追われ来た若者……人間欲望の結局に泣いて私は、尚《な》お蛙《かわず》の菜の花にひびかせて歌うに聴きとろけつつ……
 ランプが薄ぼんやりと枕許《まくらもと》に夢のように在る。
 朝、眠不足《ねむりふそく》な眼の所為《せい》か、部屋の壁に血のような赤い蝶が止《とま》っていた。



底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「新小説 明治四十四
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