の極致に於て、同一のものであるに相違ないが、それに達する途上に於ては兩者が必ずしも一致するとは言へない。その所に兩者の主張の對立がある。ソーンダイクは生物學的見地よりして、生物の滿足といふ點に着眼し、滿足なる結果に至つて安定すと考へて居るやうである。之に反して形態論者は現象學的に見て、構造の安定に留意し、安定せる結果に至つて滿足を感ずと考へて居るやうである。故に兩者の主張は全く立場を異にする所からくるもので、詳言すれば生物學的立場からはどうしても滿足の感が必要であるし、現象學的立場からは形態構造が必要になつてくる。從つて同一立場に於ける爭論と異つて、その主張の眞否を論ずるよりは、寧ろその立場の如何を論ずべきである。而して心理學の研究からいへば、一面に精神現象をあるがまゝに記述すると共に、他面には欲求とか滿足とかを考慮して、その現象變化の状勢を説明する必要がある。換言すれば人間活動は物的に支配されると共に生物的に規定されるから、吾人はその雙方の立場より研究の歩を進むべきである。雙方の立場の近い所を取りて歩みよりを企て、無理に妥協せしむるよりも、全く異つた立場を固執して、人間活動の究明に進むべきものであると私は考へる。
四
尚學習について問題となつて居るのは、動物は盲目的な試行によりて學習するといふ主張と、動物すらも洞察を用ひて學習するといふ見解との對立である。而してこの考へは人間の學習にまで推し及ぼされて、一方に人間も行ふことによりて學ぶといひ、他方に洞察によりて學習すると言はれる。今動物實驗についての論議を省き、人間の學習に於て、果して試行錯誤のみで行はれるか、それとも洞察によりて學習が完成されるかの問題を吟味して見よう。
私の考へによると、この對立は試行とか洞察とかの意味にあまり捉はれ過ぎた結果であると思ふ。殊に成人の學習實驗を試みるとその感を深くする。ある研究者は之を以て程度の差と考へて居る。例へば困難な問題に遭遇すると洞察が利かなくなり、試行錯誤的の行動をとる。所が目的や方法の洞察が行はれる所では試行錯誤的行動は表はれないと。これは極めて明白なやうであるが、しかし安價な妥協ではあるまいか。かやうな妥協をなす位なら、試行一點張り又は洞察一點張りでも説明が出來る。即ち容易な問題では錯誤が少なく數回の試行で目的に達し、困難な問題では
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