の直接行爲は時間關係を不可能ならしむると恐れ、頻繁、新進、強度を殆んど信じられない位に無理に使用し、それで不足する場合には、適合、優勢、禁止からの解放、主なる反應、殘存結果の再現等を使用する。しかし子供に最初旨い食物を口に入れて、次に食物を入れる場合と、最初苦い食物を口に入れて、次に食物を入れる場合とを比較すると、前の方が子供は容易に口を開くのは當然で、その場合には所謂「附屬」を生ずる。即ち滿足を與ふる行爲は、その何物かを後に殘し、その結合に相應して、食物を見ると、それを口に入れるやうになる。かやうな事は生理學的見地からいふと神秘的に見えるかも知れないが、事實は確かである。何にも間接的行爲をなすことによりて、それが行はれもせず、又旨い味の心像とか他の表象がその働をなすと推定する必要もない。結合した第二の行動に先んじて表象があることは眞であるが、しかしその表象と行動とは全く無關係である。旨い物を第二回目に見る場合は、最初それを見る時よりも遙か容易に反應を引き起す。故に第二回目の反應の進歩は、第二回の反應が初まる以前に已に出來上つて居ると考へられる。要するに學習に於ける結果の法則は、滿足を持來たすもの以上のことを要求せず、また或る痕跡を殘すといふよりも、附屬又は結合を生ずること以外にないものである。
ソーンダイクはまた次のやうなことを他の所で言つて居る。
學習には反復を要するが、その反復といふことは單なる時間的連續を意味しない。單なる時間的連續では學習は成立しない。そこには「附屬すること」が必要である。即ち系列の反復的出來事が、系列の第一の項と第二の項との間の結合を強めるためには、常に又は殆んど常に「附屬すること」を必要とする。しかしこの附屬することは、その言葉が意味する以上のものでない。そこに論理的とか、主要的とか、生來的とかに結合するを要しない。何れのこれが、それと共に行くことで十分である。ジョン君と一四九二番とが電話番號のために結びつくことは、コロンバスと一四九二年とが結びつくのと同一であると。
如上の言から見ると、ソーンダイクは、滿足なる結果を招來しない場合には眞の學習が成立しないことを信じて居るやうである。之に反して形態論者は[#「形態論者は」は底本では「形熊論者は」]、學習の成立には構造の安定、平衡、成全を必要とする。成全や安定の構造と滿足の結果とはそ
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