てから、伯父は幸徳さんへ出掛けたのでせう。私を呼んだのも、用事があつたのではなく、暇乞の為であつたかと思はれます』
と、武子さんは言うた。
翁が死の用意をして居たことは、種々行動の上から推測される。前年即ち明治三十三年の春、兇徒嘯集被告事件の勃発した時、郷里の妻へ送つた手紙の如きも、能くそれを語つて居る。
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「一、其方殿事、明治二十四年父庄造死去の節、正造何の用意も無之候処、其方殿、多年間予ねて御丹誠を以て、老父臨時の用意、身分相応に御心掛置き被下候より、葬儀の準備差支もなく相済候段、正造に代り子たる者の役相立、偏に御蔭と忝次第に候。爾来正造何の功能もなく、留守中家事は元より祖先の供養等までも、多年間御一任被下候段、今更に御礼申上候。何分此上とも御頼申上置候。草々。
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明治三十三年三月廿六日[#地から2字上げ]正造
かつ子江
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二白。兎角失礼も多し、御病後折角御大切に。鉱毒婦人乳汁欠乏之儀、御すくひ被下度候事」
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四十日の入獄
直訴の翌年、明治三十五年の夏、翁は官吏
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