細なく解放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱つたものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになつてしまつた。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがつた』
と言つて、翁は、笑ふにも笑はれず怒るに怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
 僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかつたが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになつた。
『若し天皇の御手元へ書面を直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行れば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行つたでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ――』
 翁は粛然として曾てかう語つた。
 武子さんの話を聞くと、用談云々の端書が来たので、直訴の前夜、芝口の宿屋へ尋ねて行つたさうだ。行つて見ると、別に用談の景色も無い。翁は目を閉ぢて独り何か冥想して居るのみで、さしたる用事のあるでも無いらしい。帰らうとすると、『も少し居よ』と言うて留める。けれど何の話があるでも無い。夜が更けるので、遂に立つて帰つた。
『私が帰つ
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