られたるまゝ、江刺県の本庁へ護送された時、その中間に上下八里の七時雨峠と云ふがある。盛岡から北を望むと、岩手姫神両嶽の間に横はる高原の奥に、サヾエ貝を伏せたる如く尖つた峰が見える。こゝを越す時の翁の歌がある。
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後ろ手を負はせられつゝ七時雨
しぐれの涙掩ふ袖もなし
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この奥州の寒地に於ける翁が獄裡生活の一片を、自叙伝の自筆草稿より抜抄す。
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「さて、此地の寒気は、人も知る如く、人並みの衣服を纏へりとも、肌刺されて耳鼻そがるゝばかりなるに、冬の支度の乏しきに寒気俄に速に進み来り、故郷は山川遠く百五十里を隔てゝ運輸開けず、県庁の御用物すらに二個月に渉りて往返せる程なれば、衣類を故郷より取寄せんこと、囚人の身として迚も迚も覚束なく、また間に合ひもせぬ気候の切迫、いかゞはせんと案じわづらひける折柄、偶々囚人の中に赤痢を病みて斃れたる人ありしかば、獄丁に請ひて、死者の着せし衣類を貰ひ受けて、僅に寒気を凌ぎけり。此年、此獄中の越年者中、凍死せる者四人ありき。」
「獄中に書籍の差入もなく、只だ黙念するのみなれば、予は記憶力乏
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