前々から有志者の間には、翁に対して不平の声が頗る盛であつた。つまり「田中が余り我儘でイケない」と言ふのだ。「鉱毒問題を田中一人の物にして置いて、我々の言ふことを少しも用ひないのは不都合だ」と言ふのだ。鉱毒地の人民は可哀そうだが、田中が居ては救ふてやることが出来ないなど言ふて、其れを口実に逃げた人も多い。実は斯く言ふ予自身も翁に対して数々《しばしば》不快の念を抱いた者だ。或時翁と新聞社の卓子《つくえ》の上で衝突した。原因は忘れたが、何でも予が生意気なことを言つたに相違ない。すると今まで丁寧に話して居た翁は、むくと真赤に立腹して有り合はせた大きな雑誌を鷲づかみにしたかと思ふと、天井も抜けさうに罵りながら、バシイリ/\と卓子を叩き始めた。墨は飛ぶ、紙は舞ふ。編輯室一同筆を止めて呆れて見て居る。壁一重の印刷場からは、活字を手にしたまゝ、男女の職工が狭い戸口に顔を重ねて見物する。予は知らん顔して原稿を書いて居た。翁も漸く気が晴れたか、けろりと元の柔和な顔に返つて、執務妨害の謝罪《わび》をして、急な梯子《はしご》をガタリ/\と帰つて行かれた。凡そ翁に接近したもので、此の怒号を浴びせられないものは無
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