る。深玄な哲理が極めて平易な文字を以てスラ/\と自在に書き流してある。
『如何して書く気におなりでした』。
と聞いて見たが、
『何だか切りに死ぬような気がするので、只だ浮ぶまゝを書いて見たのです。お目になど掛ける品でごわせん』。
斯う言つて、恰も小供の羞かむだ時のように、首を低《た》れて笑はれた。
七
今年七月の三日、即ち予が円覚寺へ行つた前日、谷中村破壊の三周年紀念会を開くと云ふ通知があつたので、小雨の中を行つて見た。三年前には未だ小供のようであつたものが、既に立派な青年になつて盛に周旋して居た。予は翁からの注文で、隣家《となり》の着古るしの芝簑を一領携へて行つた。翁は直ぐと着て見て大喜び。
八
翁はよく手紙を書く。同じ日付の手紙が二本も三本も来ることがある。若し一週間も音信《たより》が無いと、何か変事でも出来たのでは無いかと心配になる。是れは八月三日の端書で、特に「土用見舞状」と書き、尚ほ「今日の所では埼玉二ヶ村本年大豊年巡視中、谷中植付無し」と表書《おもて》の宛名の下に書き足してある。翁の手紙は毎々此の流儀の規則破りだ。
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「拝啓、いつも同じよふな、唐人の寝言のよふな文句、もふ呆れられる頃。西田法師は今何処に納涼して居らるるか。法師の納涼はヤヽ大なり。人は出るに車馬ありを、此人のは出れば必ず風あり。至る処風なきなし。至る処月なきなし。花なきなし。雲なきなし。天地山川皆我ものなり。世人の憐れなる、此大いなるを見すてゝ跼蹐たる小天地に身を投じ、苟も金を懐中せざれば、山に海に林に遊びにも行くの勇気なく、殆ど疲れたる老人の如し。苟も食なければ一日だも安んぜず。此人々の海辺へ山林に行かんか。先づ弁当と金とに腹一杯なるを以て、清涼の空気といへども容るゝの余地なきまでに奢りふけりては、又新鮮空気の必用なし。かの農民の田の面に腰休め、烟草一プク、天地と共に立ちて自由の呼吸をなす。これ誠に納涼のヤヽ大なるものなり。然れども習慣は、富より出でざれば楽みとせず。所有権より来る困難厄介の問題、いかに神聖の教ありとも、馬耳東風。狭き納涼に多大の金銭を失ふて得々たり」。
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此頃毎日の雨。先づ東海道筋の大出水大破壊。次で利根川大氾濫と云ふ新聞。逆流の波に打たれる谷中の惨状が目の前に浮ぶ。予は翁の多忙を思ふた。すると十一日には予の村も荒川の氾濫で同じく水浸しになつて仕舞つた。道路《みち》は背が立たぬ。隣家へ行くにも船で無けねばならぬ。赤濁りの汚水が床板の上を川のように流れた。水は五六日で退《の》き、道もやがて乾いたが、稲田は穂を含んだまゝに枯れて仕舞つた。
九
二十四日の午前《ひるまえ》、日が照つて再び暑気《あつさ》が増した。庭前にガサ/\と物の摺れる音がするので、振り向いて見ると、菅笠に足袋跣《たびはだし》の翁が、天秤棒の先に風呂敷包を一つ担いで、此の晴天に先日の簑を着込んで御坐る。垣根の外には村の小供等が鼻汁《はな》を嘗めながら珍らしさうに眺めて居る。今度の洪水に就て、急に用事が出来たので昨夜《ゆうべ》出で来たと云ふお話。是れから直ぐ又た番町へ行つて、明日は早く村へ帰らねばならぬと云ふ。
まあ、少しお休みなさいと無理に引き留めて、種々と承はる。例の矢立を抜き出して、半紙を延べて利根川流域の地図が画かれる。而して洪水氾濫の決して天災では無くして全く人工であることを説明される。簡潔明晰で、洪水がまるで指頭にブラ下がつて居るようだ。
『雨は昔も降つたです。水は昔も出たです。水が出ると云ふことは、百姓は驚きません。却て山から結構な肥料を持つて来て呉れますので、水の翌年は豊年だと云ふて喜んだものです。所が今は一升の雨を三升にして押し流すから堪りませんよ』。
「一升の雨を三升にして流す」、翁の説明は常に此の禅僧式なので、血の運りの悪い識者は、先づ貶《け》なして仕舞つて聴かうとしない。
『先づ山林濫伐で水源が赤裸々《あかはだか》になる。そこで以前は二日に流れた雨量を一日に流して二倍にする。其れを又た下流に色々な障礙物を築造して、無理に水を湛へて逆流させて三倍にして仕舞ふ。是れだから昔も今も同じ雨量《あめ》で、洪水《みず》は三倍の害をする』。
如何にも其の通りだ。
十
午後、枕を出して置くと、翁は何時か横になつて、大鼾をかいて、楽々と熟睡《ねむ》つて仕舞はれた。山の転んだような寝姿。ホノ/″\と紅味を含んだ厚肉の頬のあたりを熟々《つらつら》ながめて、予は又た十年の昔、新聞社の二階で始めて見た時を思ひ浮べた。彼の頃の翁の容貌《かお》には「疲労」の二字を隠くすことが出来なかつた。直訴の前後が、或は翁の疲労の頂点であつたかも知れぬ。
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