ゝ喪心者の如く独語されるのを、予は屡々聞いた。

       三

 谷中村の破壊前、村長代理の郡書記に向て、泥棒野郎と言つたとか云ふ件で、翁が官吏侮辱罪に問はれたことがある。其時或人が斯う言ふた。『天下の田中も最早お仕舞だ』。
 一般の世評を聞くと、議員を止めた時が、田中の生涯の終局で、直訴は灯火《ともしび》の消える時パツと一つ閃いたものと云ふことになつて居る。実に妙なワケだ。
『政治家になつた為に、二十年後れて仕舞つたですよ』
と、云ふのが翁が毎々残念がつて語られる所だ。
 予は翁が政治運動に身を投じた時の話を聞いて、驚歎した。自由民権論が勃興して、国会開設の請願と云ふ風が全国の志士を吹き靡かした時だから、明治十二三年頃だ。翁は二箇条の一家処分案を提出したと云ふ。財産抛棄と家系断絶。――財産の方に就ては家族の間にも格別異存が無かつたそうだが、家系断絶の一件は頗る苦情が出たそうだ。養女をば若干《なにがし》の財産《かね》を付けて実家へ返へして仕舞つた。家《うち》は親父の病気を頼みきりにした医師への礼にやつて仕舞つた。かくて翁は全く家を外の人になり終つた。是れは立憲代議政治の政治家の覚悟としては、余りに高過ぎた。政治家になつた為めに二十年後れたと云ふ歎息は、少しも不思議で無い。
 翁が進歩党を脱したのも、其の原因は、鉱毒問題を他から党派間題として中傷されるのを避ける為めであつたろう。又た議員を止めたのも、鉱毒問題は選挙の政略だなど讒誣されるのを防ぐ為めであつたろう。けれど政党とか議会とか云ふ窮屈な小箱に納まつて居ることは、翁の本来性の所詮堪え得る苦痛で無いことが、其の深い真因である。人間を只だ社会国家の一分子と見、机上の統計表を繰りひろげて、富が増したとか、国権が拡張したとか言ふて居ることは、翁の熱血の承知し得ることで無い。翁の眼は直に活きて居る「人」に注ぐ。

       四

 翁の頭脳《あたま》には一人の大きな戯曲家が住んで居る。其れ故、始めて翁と語る者は、彼は幻視《まぼろし》と事実と混同して居るんじや無いかと思ふ。或は彼は誇大な虚言《うそ》を吐く男だと思ふ。成程翁の語る事実には、普通の事実と違ふものが多い。翁は普通の人が見ない事実を語る。何等の疑念なく、平気に真面目に、而かも慷慨歎息して語る。而して多くの人は是れが為に、『田中の話は信用が出来ぬ』と云ふて避けて仕舞ふ。けれど後になると、翁の言ふたことが皆な正確な事実になつて現はれて来る。普通人の事実と云ふのは、只だ目に見えるだけの浅薄な断片に過ぎないが、翁の事実は、脳中《あたま》の鏡に映じた組織的戯曲的の事実だ。彼は直に我が見た所のものを語る。故に未だ存在しないことをも、既に存在したものとして語る。彼に取ては未来は即ち現在だ。彼は書物《ほん》も読まない。新聞も読まない。只だ一心に「人」ばかり考えて居る。故に翁の智慧には殆ど虚偽の雲が無い。『小児《こども》の時読んだ論語さへも、今日邪魔になる』と、何時やらもシミ/″\と歎息された。

       五

 然れども過去を考えると、翁の事業は「悪を憎む」一方に傾いて居た。其の動機の底には、愛人の熱涙が沸つて居ても、其れが一たび彼の「気質」を通過して出て来る時は、既に一面に敵に対する憎悪の毒烟に掩はれて居た。鉱毒運動に賛成する者は正義の士で、賛成しない者は不正不義の徒と、かう云ふ風に、翁の眼中には極めて明確に区別がついて居た。
 政党を捨て、議会を捨て、政治を捨て、世間からも、故旧からも、同志からも一切忘られて、孤身単影、谷中の水村へ沈んだ時が、翁の生涯に於ける新飛躍であつた。四十年の夏。谷中村の残民十幾戸が、愈々公権に依て破壊され了つた時、或人が扇子を出して、何か書いて下ださいと云ふと、翁は筆を持つて打ち案じて居られたが、忽ち腕が動いたと見ると、雪白の扇面に「辛酸入佳境」と行書の五文字、さながら竜の行くが如くに躍り出でた。見て居た連中、何れもうまい/\と、只管《ひたすら》に其の筆鉾を讃めたゝへた。讃められて翁は、長髪の波打つ頭を両手に叩いて、大口開いて「ハヽヽヽ」と笑われた。予は覚えず涙を呑んだ。
「辛酸入佳境」
 翁の生涯は実に此の五文字に描き尽くされて居る。
 此の頃から、翁は点頭《うなず》きながら、
『悪人と云ふものは無いです。悪人と思つたのが間違で、つまり何も知らないのです』
と語り始めた。

       六

 一昨年の何月頃であつたか、翁は切りに文章を書いた。其れが皆な古河の停車場の茶店に汽車を待つ間などの手ずさみで、曾て腰を離《はな》つたことの無い大きな矢立を取り出して、粗末な手帳へ書き放したものである。そんなのが三四冊出来た。読んで驚いた。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》あたりの古哲の遺書を誦むような気がす
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