訴の翌々年の秋の初と記憶して居る。是れまで長年鉱毒問題に同情を寄せて呉れた人達を神田の青年会館に招いて訣別演説をされたことがある。無論|訣別《おわかれ》など云ふ意味を出して招かれたので無いが、後に至て其意志を読むことが出来た。政治家、僧侶、新聞記者、種々《いろいろ》な顔が集つた。予も後ろの方に腰掛けて居た。やがて翁は椅子を離れて一同の前に例の丁重な辞儀をされた。其時の翁は相変らず黒木綿の単衣《ひとえ》に毛繻子の袴。羽織は無かつた。偖《さ》て顔を上げて口を切らふとすると、言葉が出ない。頭を振つて偖て又た口を切らふとするが、矢張どうしても言葉が出ない。来賓等も不審に思つて見て居ると、翁の両眼から、忽ち熱涙が堤を切つて溢れ落ちた。其れを大きな拳で横なぐりに払ふ。満坐霊気に打れて、皆な頭を垂れた。翁は立つたまゝ、後ろ向きになつて暫く泣いて居られたが、やがて扉《ドア》を開けて顔洗いに出て行かれた。
 此の日の演説は長かつたが、一言一語、沸る血液の響であつた。
『是れだけのことを皆様に御訴へ申した上は、田中正造、今晩死にましても、少しも思ひ残すことは御坐りません』。
 是れが最後の一句。
 何でも前々から有志者の間には、翁に対して不平の声が頗る盛であつた。つまり「田中が余り我儘でイケない」と言ふのだ。「鉱毒問題を田中一人の物にして置いて、我々の言ふことを少しも用ひないのは不都合だ」と言ふのだ。鉱毒地の人民は可哀そうだが、田中が居ては救ふてやることが出来ないなど言ふて、其れを口実に逃げた人も多い。実は斯く言ふ予自身も翁に対して数々《しばしば》不快の念を抱いた者だ。或時翁と新聞社の卓子《つくえ》の上で衝突した。原因は忘れたが、何でも予が生意気なことを言つたに相違ない。すると今まで丁寧に話して居た翁は、むくと真赤に立腹して有り合はせた大きな雑誌を鷲づかみにしたかと思ふと、天井も抜けさうに罵りながら、バシイリ/\と卓子を叩き始めた。墨は飛ぶ、紙は舞ふ。編輯室一同筆を止めて呆れて見て居る。壁一重の印刷場からは、活字を手にしたまゝ、男女の職工が狭い戸口に顔を重ねて見物する。予は知らん顔して原稿を書いて居た。翁も漸く気が晴れたか、けろりと元の柔和な顔に返つて、執務妨害の謝罪《わび》をして、急な梯子《はしご》をガタリ/\と帰つて行かれた。凡そ翁に接近したもので、此の怒号を浴びせられないものは無かつたに相違ない。
 然れども此の「有志者」と云ふ奇怪な一種族が、長い間何程翁を苦しめたかを考えると、予は実に此人を気の毒に思ふ。「有志者」と言ふのは、何時でも勝手に逃げて行ける人のことだ。
 此の無責任の大群が、恩人顔して出放題を吐《つ》くのだから堪えられるもので無い。けれど「運動」と云ふものには此の「有志者」の虫が必要だ。「運動」が景気づけば、此の有志者も自然世間へ顔を売り出すことになる。翁の鉱毒問題が、此の「運動」時代に居た頃は、「有志者」も盛に集まつた。けれど今や翁自身が政治と云ふ運動場裡を退出した。翁の事業が日一日と世間的で無くして精神的に落ちて行く。昨日までは、翁が運動団の帝王で、有志者は将校士卒であつた。然るに翁自ら帝王の権威を抛棄した今日は、主客其の位地を変じて、却て有志族の圧迫に苦しめられる境遇に陥ちて仕舞つた。鉱毒問題が新聞に二号活字で記載せられ、少しく世間の景気が付くと、忘れて居た有志者が、直ぐ何処からともなく寄つて来て、大きな口を利く。而《そ》して世間の評判が消えると、此の有志者も亦た共に烟のように亡くなつて仕舞ふ。予は谷中村破壊の最後の幕まで、翁が絶えず此「有志者」と云ふ恩人の為めに苦められて居るのを実見した。
 翁は今年七十だ。然かし体躯《からだ》は以前《まえ》よりも遙かに健康《よく》なられた。直訴の時分には車が無ければ歩行事《あるくこと》出来なかつた人が、今では腕車《くるま》を全廃されたと云ふ。顔の皺も近頃は美しく延びて、若々となられた。
『六十の翁は義人であつた。けれど七十の翁は既に聖者の域だ』。
 予は斯う思ひながら、団扇《うちわ》を取て顔の蝿を払つて居た。
 日の西に傾いた頃、翁はポカリと目を覚まして、是れから番丁へ行くと言はれる。予は一泊を勧めて見たが、明日村へ帰へらねばならぬからと言はれゝば、強いて引き留めるわけにもならぬ。
 翁は障子口に坐つたまゝ、太い腕を背後《うしろ》へ廻しながら、
『深呼吸と運動とで、リヨウマチも先づ/\退治て仕舞いました』
と言はれる。
『どうです。一つ静坐《すわ》つて御覧になつては。貴方などは一度で直ぐ御わかりになりませう。自己流では失張駄目です。今夜お泊りになつて、一度岡田さんにお逢いになつては』
と、予は勧めて見た。翁も一寸考えて居られたが、
『村の用事が重なつて居るんで』
と、首を傾けなさる。
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