翁は簑を巻いて、包と一つに天秤棒に結んで、立ち出でた。予は村境までもと、話しながら送つて行つた。
村を出離れて田圃路をうねり/\行く時、翁は始めて簑の話をせられた。
『何時でしたか、雨の降る中を貴宅からの帰りに、此の田圃で、若い娘さんの簑笠で、肥車《こやしぐるま》を押して来るのに逢ひましたが、其の簑の濡れた姿が如何にも可かつた。其れで貴方にワザ/\御手数をかけたですが、所で私が着たでは、ドウも娘さんの様な善い格好に行かない』。
斯う言つて翁は自髯を夕風にそよがせながら、さも心地よげに呵々《からから》と笑はれた。予も噴き出さずには居られなかつた。
村境《さかい》の土橋へ来たので、予は立ち留つて、
『どうです。一つ都合して岡田さんへ行つて御覧になつては』
と再び勧めて見た。何と響いたか、翁も同じく足を留めて、首傾けて考えて居られたが、弾くように顔を上げて、
『参ります。参ります。では今夜は日暮里に泊めて戴いて、明朝必らず参ります』。
笠の中から恰も誓ふように言つて、一礼して、スタ/\と行つて仕舞はれた。
予は田圃を戻りながら、心は何時か、書きかけの日蓮の上に飛んだ。
『法然は八十で死んだ。親鸞は九十で死んだ。六十は日蓮として若過ぎた。せめて今ま十年生かし置いて、其の新発展を見せて貰いたかつた』。
底本:「近代日本思想大系10 木下尚江集」筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2006年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング