大野人
木下尚江
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)最早《もう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丸|卓子《テーブル》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから5字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)アリ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
[#ここから5字下げ]
昨年の秋『日蓮論』の附録にする積りで書きながら、遂に載せずに今日に及べるもの
[#ここで字下げ終わり]
一
日蓮を書いて居ると、長髪白髯の田中正造翁が何処からともなく目の前に現はれる。予は折々、日蓮を書いて居るのか、翁を書いて居るのかを忘れて仕舞つた。予が始めて翁を知つたのは最早《もう》十年以前。其時は丁度六十であつた。田中正造と云へば足尾鉱毒問題の絶叫者として、議会の名物男と歌はれて居た。予は其の議会の演説と云ふものを、一度も聴かなかつたが、速記録で読むと、銅山主や政府当局に対する罵詈悪口が砲弾の如く紙上に鳴動して、関東の野人が、満面朱を注いで怒号する様子がアリ/\と見えた。然れども其の罵詈悪言の余りに猛烈な為めに、予は却て鉱毒問題其物に対して、窃に疑惑を抱かぬでも無かつた。或人は冷かに『田中の鉱毒は政略さ』と笑つて居た。
予が始めて御目にかゝつたのは、翁が進歩党を脱した、春の未だ寒い時分であつた。其頃予は足尾の山の視察記を書いて居た。或日編輯室で忙がしく筆を運ばせて居ると、社の長老の野村さんが、『田中君が一寸お目に掛りたいと言つて居ますが』、と、例の丁重な調子で言はれた。『田中?』と、予が不審がると、『正造君です』と、野村さんが継ぎ足された。予は直ぐ席を離れて応接室へ行つた。
左右の壁側に書物棚《ほんだな》を置いて、雨漏のシミのある天井から瓦斯の鉄管がブラ下がつた外には何一つの装飾も無い、ガランとした埃つぽい応接室。古い大きな丸|卓子《テーブル》に肘をついて、乱髪の大頭を深く考え込んだ一個巨大の田舎老漢《いなかおやじ》。大紋の赤くなつた黒木綿の羽織に色の褪せた毛繻子の袴。階下《した》は直ぐ工場で、器械の響で騒がしい。
予が声を掛けたので、巨大漢は顔を上げた。而《そ》して其の丘のような横広い体躯を揺り起して、額をピタリ卓子につけて痛
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