けて仕舞ふ。けれど後になると、翁の言ふたことが皆な正確な事実になつて現はれて来る。普通人の事実と云ふのは、只だ目に見えるだけの浅薄な断片に過ぎないが、翁の事実は、脳中《あたま》の鏡に映じた組織的戯曲的の事実だ。彼は直に我が見た所のものを語る。故に未だ存在しないことをも、既に存在したものとして語る。彼に取ては未来は即ち現在だ。彼は書物《ほん》も読まない。新聞も読まない。只だ一心に「人」ばかり考えて居る。故に翁の智慧には殆ど虚偽の雲が無い。『小児《こども》の時読んだ論語さへも、今日邪魔になる』と、何時やらもシミ/″\と歎息された。

       五

 然れども過去を考えると、翁の事業は「悪を憎む」一方に傾いて居た。其の動機の底には、愛人の熱涙が沸つて居ても、其れが一たび彼の「気質」を通過して出て来る時は、既に一面に敵に対する憎悪の毒烟に掩はれて居た。鉱毒運動に賛成する者は正義の士で、賛成しない者は不正不義の徒と、かう云ふ風に、翁の眼中には極めて明確に区別がついて居た。
 政党を捨て、議会を捨て、政治を捨て、世間からも、故旧からも、同志からも一切忘られて、孤身単影、谷中の水村へ沈んだ時が、翁の生涯に於ける新飛躍であつた。四十年の夏。谷中村の残民十幾戸が、愈々公権に依て破壊され了つた時、或人が扇子を出して、何か書いて下ださいと云ふと、翁は筆を持つて打ち案じて居られたが、忽ち腕が動いたと見ると、雪白の扇面に「辛酸入佳境」と行書の五文字、さながら竜の行くが如くに躍り出でた。見て居た連中、何れもうまい/\と、只管《ひたすら》に其の筆鉾を讃めたゝへた。讃められて翁は、長髪の波打つ頭を両手に叩いて、大口開いて「ハヽヽヽ」と笑われた。予は覚えず涙を呑んだ。
「辛酸入佳境」
 翁の生涯は実に此の五文字に描き尽くされて居る。
 此の頃から、翁は点頭《うなず》きながら、
『悪人と云ふものは無いです。悪人と思つたのが間違で、つまり何も知らないのです』
と語り始めた。

       六

 一昨年の何月頃であつたか、翁は切りに文章を書いた。其れが皆な古河の停車場の茶店に汽車を待つ間などの手ずさみで、曾て腰を離《はな》つたことの無い大きな矢立を取り出して、粗末な手帳へ書き放したものである。そんなのが三四冊出来た。読んで驚いた。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》あたりの古哲の遺書を誦むような気がす
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