思ふた。すると十一日には予の村も荒川の氾濫で同じく水浸しになつて仕舞つた。道路《みち》は背が立たぬ。隣家へ行くにも船で無けねばならぬ。赤濁りの汚水が床板の上を川のように流れた。水は五六日で退《の》き、道もやがて乾いたが、稲田は穂を含んだまゝに枯れて仕舞つた。

       九

 二十四日の午前《ひるまえ》、日が照つて再び暑気《あつさ》が増した。庭前にガサ/\と物の摺れる音がするので、振り向いて見ると、菅笠に足袋跣《たびはだし》の翁が、天秤棒の先に風呂敷包を一つ担いで、此の晴天に先日の簑を着込んで御坐る。垣根の外には村の小供等が鼻汁《はな》を嘗めながら珍らしさうに眺めて居る。今度の洪水に就て、急に用事が出来たので昨夜《ゆうべ》出で来たと云ふお話。是れから直ぐ又た番町へ行つて、明日は早く村へ帰らねばならぬと云ふ。
 まあ、少しお休みなさいと無理に引き留めて、種々と承はる。例の矢立を抜き出して、半紙を延べて利根川流域の地図が画かれる。而して洪水氾濫の決して天災では無くして全く人工であることを説明される。簡潔明晰で、洪水がまるで指頭にブラ下がつて居るようだ。
『雨は昔も降つたです。水は昔も出たです。水が出ると云ふことは、百姓は驚きません。却て山から結構な肥料を持つて来て呉れますので、水の翌年は豊年だと云ふて喜んだものです。所が今は一升の雨を三升にして押し流すから堪りませんよ』。
「一升の雨を三升にして流す」、翁の説明は常に此の禅僧式なので、血の運りの悪い識者は、先づ貶《け》なして仕舞つて聴かうとしない。
『先づ山林濫伐で水源が赤裸々《あかはだか》になる。そこで以前は二日に流れた雨量を一日に流して二倍にする。其れを又た下流に色々な障礙物を築造して、無理に水を湛へて逆流させて三倍にして仕舞ふ。是れだから昔も今も同じ雨量《あめ》で、洪水《みず》は三倍の害をする』。
 如何にも其の通りだ。

       十

 午後、枕を出して置くと、翁は何時か横になつて、大鼾をかいて、楽々と熟睡《ねむ》つて仕舞はれた。山の転んだような寝姿。ホノ/″\と紅味を含んだ厚肉の頬のあたりを熟々《つらつら》ながめて、予は又た十年の昔、新聞社の二階で始めて見た時を思ひ浮べた。彼の頃の翁の容貌《かお》には「疲労」の二字を隠くすことが出来なかつた。直訴の前後が、或は翁の疲労の頂点であつたかも知れぬ。
 直
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