の時まで尚ほ代議士の名義を保存して、この一行を案内したが、臨検の事が終るや、直に衆議院議員の辞表を提出して、一個の野人田中正造に返つた。
直訴
明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式。
日比谷大路の拝観者の群中に混じて、時間の到来を待つて居た田中正造は、手に一通の奏状を捧げ、
『御願が御座ります――』
と、高く呼びつゝ、還幸の御馬車目がけて飛び出した。騎兵が一人、槍を取り直して突き出した。脚の弱つて居た田中は、躓《つまづ》いて前へ倒れた。余り急に、姿勢を転じたので、騎兵は馬もろ共横に倒れた。還幸の行列は桜田門を指して粛々と進んだ。
翁が直訴の真意は、同じ十八日、郷里の妻勝子への手紙に明白だ。その中にかう書いてある。
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「――又正造は、今より後は此世にあるわけの人にあらず、去十日に死すべき筈のものに候。今日生あるは間違に候。誠に余儀なき次第に候。当日は騎兵の中一人、馬より落ちたるもの無ければ、此間違もなくして、上下の御為此上なき事に至るべきに、不幸にして足弱きために、今日まで無事に罷在《まかりあり》候。此間違は全く落馬せしものありての事ならんと被考《かんがへられ》候。
村々の者呉々も善道に心を持ちて、心のあらん限り誠実に互に世話致し可申やうに、話するの要あり。東京御婦人の慈善心の厚き誠に誠に天の父天の母の如くにて候。呉々もありがたく奉存候」
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忘れ得ぬ翁の独語
田中翁の手紙にあつた「東京御婦人の慈善心云々」と云ふのは、翁の直訴前に出来た「鉱毒地婦人救済会」のことだ。三十五年の二月の或日、この救済会の潮田千勢子と云ふ老女が食物衣服など車に輓《ひ》かせて、鉱毒地の見舞に出掛けた。僕も一緒に行つた。潮田さんは六十であつたらう。この日は船津川高山など云ふ被害の劇甚地を廻つた。大雪の翌日で、日は暖かく照つて居たが、殆ど膝へまで届く雪の野路を、皆な草鞋《わらぢ》ばきで踏んで歩いた。田中翁が例の黒木綿の羽織に毛繻子の袴を股立高く取つての案内役だ。案内役とは言ふものの、かく一軒々々訪問して、親しく人々家々の事情を聴いて廻はると云ふことは、この人にしても始めての事だ。
潮田さんの秘書役をして居た松本英子と云ふ婦人記者が一々|委《くは》しく書きとめたものがある。今その二つ三つをこゝに載せる。
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「
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