ず大統領の候補者であるであらう」と云ふ一語を吐いた。政党内閣の間隙を窺つて居た官僚派は、直ちにこの一語を捉へて「尾崎文相の共和演説」と宣伝し、自由派の輩まで盛に唱和して内閣一角の崩潰を企てた。
一、十月二十日、侍従長徳大寺実則の板垣訪問。二十一日板垣参内。二十二日侍従職幹事岩倉具定の大隈訪問。二十四日、尾崎辞職。
一、廿五日、板垣、文相候補として星亨江原素六二人を推す。大隈|容《ゆる》さず。二十六日、大隈参内して、犬養毅を推挙。
一、二十七日、犬養親任式。これに先だち板垣参内、大隈の専横を奏上。
一、二十九日、自由派の板垣松田林三相辞表。
一、三十一日、進歩派の大隈大石大東犬養四相辞表。
一、憲政党成りてより未だ五月に満たずして、争奪あり分裂あり、自由派は憲政党と号し、進歩派は憲政本党と称す。かくて政党内閣は、未だ自ら議会にも臨まずして、瓦解の醜態を暴露。
一、政党内閣自ら倒れて、十一月八日、薩長両閥の新内閣成立。山県有朋総理大臣、松方正義大蔵大臣。
然れ共衆議院に与党を有たない政府は、議会は既に昨七日召集されて居ても容易に開院式を挙げることが出来ない。十二日、板垣は山県に会見して、自由党提携の議を交渉す。往復頻繁。二十七日、臨時閣議に於て自由党提携の議を可決。山県乃ち自由党の首脳星亨を招きて宣言書を交附し、三十日、首相邸に於て茶話会を開く。
一、十二月三日、開院式始めて行はる。
一、八日、政府先づ地租増徴案を衆議院へ提出。この地租増徴案は近時政海の暗礁で、政党の反対の為めに、既に幾度も議会の解散を見た。特に地租軽減と云ふことが自由党多年の主張なので、昨日までの党議を故なく突然放擲すると云ふことは、如何にも困却だ。そこで世間へ弁明の口実の立つやうに、五年の期限を付けて賛成することにした。且つ議員の歳費八百円を二千円に増加することを暗約した。
かくて多年の難件地租増徴案は、二十日、自由党の支持の上に無事通過することが出来た。
一、明くれば三十二年二月二十八日が議会の最終日であつたが、その日になつて三月十日まで延長の詔勅が出た。かくて予ての歳費増加案が提出された。自由党内にも、さすがに自ら恥づるものが多い。そこで星はこれ等の人を安心さす為めに、従来の議院法に「議員の歳費は辞することを得ず」とあるを修正して「辞することを得」と云ふことにした。
三月六日、委員会から直
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