のに一つ精気を吹き込んで、社会の活力にしたいと云ふ希望を抱いて居たので
『婦人矯風会が宜しいでせう』
と提言した。
 かくてその月十六日、矯風会の矢嶋楫子、潮田千勢子両老婦人を始め四五の人々の鉱毒地視察が行はれ、潮田夫人を会長として鉱毒地婦人救済会と云ふものが出来た。矢嶋夫人は大きい所のあつた人で、この人の名は世に伝へられて居る。潮田と云ふ婦人は仕事の出来た人で、この救済会の金品募集から分配、病人の治療等一切が、この婦人の頭と手とで計画され実行された。
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一、十一月二十九日夜、救済会第一回演説会を神田美土代町の青年会館に開く。聴衆満堂、霊火に打たる。
一、第二回、本郷春木町中央会堂に開会。
一、十二月十日、田中翁直訴。
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「田中の鉱毒か」と、半ば嘲笑と共にひやかして居た足尾鉱毒問題が、全く清鮮な光輝となつて、新たに社会の心情を照した。
 婦人救済会から一つのものが生まれた。或日の会合で、今の青年学生に、鉱毒地を見せることが、実地の学問になるのではないかと言ふ話が出た。その結果、
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一、十二月二十七日、都下学生の鉱毒地視察。学校の種別で言ふと、帝国大学、学習院、各私立大学、仏教基督教の各学校。
一、翌二十八日、青年会館に学生視察の報告会。
一、翌年元日から学生の路傍演説。
一、一月七日、帝国大学生発起の鉱毒地視察。
一、その前夜、文部大臣菊池大麓は大学総長山川健次郎を招きて、大学生の鉱毒地視察禁止。
一、潮田会長が東海道を経て、京都大阪まで演説旅行。特に大阪中の島の集会の如きは、聴衆感激、狂するが如し。
一、九州より、奥羽より、青年婦人等、鉱毒地視察。
一、鉱山主古河市兵衛の老夫人、神田川に水死。
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 この時も渋沢栄一は人を介して先生に鉱毒運動の中止を勧告した。

 (二) 星亨と先生
 三十一年六月、進歩党自由党合同して憲政党内閣成立するや、陸奥外相の下に公使として米国に在勤して居た星亨急遽帰朝して、入閣を迫つた。当時の策士犬養木堂は、星を入れゝば必ず内部から破裂があるので、これを峻拒した。星は入閣の駄目なことを見るや、「尾崎文相の共和演説」など誇張して、到頭外部からの破壊を成就し自由党の実権者となつた。
 三十二年、東京市会議員の改選
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