殖えて分配も行き渉り、百人が略々同様に安楽なるは喜ぶべきことゝ私は思ひます。これが、私は日本の後来の為に注意すべき点と思ふ。私は斯様なる社会の有様に日本を置きたいと希望します。日本にバンデルビルトの如き人が出来ずとも衆人が不足を告げず、資本労力の戦争なき富国にしたいと、私は思ひます。さればとて弊害をのみ恐れて、現在のまゝ未開の有様に居ようと主張するではありません。矢張り大きな製造会社も起したい。今日のやうに熱天に汗をかいて一人でボツ/\仕事するよりも、器械を用ひてやるやうにしたいが、同時にこれに伴ふ弊害を避ける方法を講究したい。」
かくて先生は、独逸の社会党を説き英国のツレードユニオンを説き、最後に「コーペレーシヨン」に就て実地見聞の説明をして、一大長講演を結んである。
僕はこの速記録を読んで、時勢の変遷に驚愕した。「産業革命」の知識は、今や少年少女の常識になつて居る。けれど、明治二十年の頃には、大学生の頭にも未だ異聞怪談であつた。この時に於て、平明に豊富に、噛んで含めるやうに未来を警告された先生の知見と誠意と能弁とに、僕は心の底から感歎した。先生はこの時三十九歳だ。
これを読んで、僕は更に一つの事を理解した。
丁度十年を経て、明治三十四年僕等は社会民主党を造つた。憎悪と嫌忌と賤蔑との世論の中に立つて、先生は「社会主義と社会党」と題し、毎日新聞紙上月余に渉つて詳細慎密に評論された。後に「社会主義概論」と改題して出版されその頃普く愛読されたものだ。当時先生の態度は何と言うて可からう。今のハヤリ言葉を借用すれば、「シンパ」と言ふ所だらう。然れ共少し離れて疑はしげに眺める者には何と見えたであらうか。社会党の創立者中、安部磯雄、片山潜の二人は先生と親交ある友人だ。数にも足らぬ人間ながら、僕と言ふ者は現に先生に尤も親近な社中の者だ。貴族富豪等の目には先生が事実社会党の首領の様に見えたであらう。明治三十六年の、横浜の選挙と云ふ活劇には、この事が一つの大きな動機をなして居たやうに思はれる。三十六年の横浜の選挙は、単に先生一身上の劃期的事件であつた許りでなく、政治思想史上にも社会思想史上にも、注目すべき活きた運動であつた。然し、僕はそれを説く前に今一つ先生の思想問題上君に聴いて欲しいものがある。
「開国始末」執筆の頃
先生を語る為めに、全集を彼れ此れ開いて居ると、
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