とは決して現出せざりしことを信ずるなり。往時を追懐すれば、被害民が時に常識以外の言動に出づるに及べる者は政府の不信切は正に其の主要なる原因と言はざるべからず。
余は「鉱毒問題」の根本的解釈を得ることの一日も早く来らんことを望まざるべからず。未だ根本的解釈を得るに及ばずして、数※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》被害民の激動を起こし、社会をして常に其悲哀に泣かしむるが如きは、余の窃かに政府の為めに採らざる所なり。而して余は是れ畢竟《ひつきやう》、政府と被害民との間に一巨溝の横はりて、相互の意志毫も相通ずるなきに原因することを発見せり。
余は鉱毒地人民に就て多く其の談話を聞きたり。また婦人等の感情をも之を聞きたり。而して彼等は皆な最後に余に向て訴へて曰く「政府は己等を如何になさんとの御思召にや」と。アヽ余は不幸にして政府の意志を知らざるなり。故に余は彼等の哀訴に向て一言半語の満足をだに与ふる能はざるを悲まずんばあらず。然れ共余は今ま幸に彼等人民の情態と意志と希望とを聊《いさゝ》か写して之を政府に通じ得ることを喜ぶなり。

   地方官吏の誤解

中央政府は地方官吏の口と手とを通じて、僅かに鉱毒被害民の事情を知るに過ぎざるなり。而して之を中央に伝達する地方官吏にして、彼等人民を誤解し居るに至ては、中央当局者|仮令《たとひ》賢明なりと雖も、豈に其の実情を知ることを得んや。
余は鉱毒被害地の惨状を聞くに熟せり。去れど足一とたび其の地を踏むに及びて其の惨状の寧ろ伝聞に勝れる者あるを感じたり。余は既往に於て被害民の数※[#二の字点、1−2−22]|簑笠《さりつ》上京したるを見聞せり。当時余は多少其の間に疑惑を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さしはさ》まざるに非ざりしも、今に至て始めて之を氷解せり。
渺茫《べうばう》として田園の不毛に帰したるあり。所々に小丘を見るは是れ毒土を聚積したりしなり。川に魚なく、堤の竹藪枯れて、春鶯また巣くはず、夏の夕、蚯蚓《きういん》の歌ふ声絶えて、小児の蛇を知らざる者あり。勿論鉱毒地は其面積甚だ広く、処によりては被害の余り大ならざる者ありと雖も、其の劇甚地に至りては、聞く者、見る者、悲痛の因ならざるはあらず。二十余町の地主にして、僅かに一家数口を糊するに過ぎざるあり。農家の婦にして、野菜を買うて厨房を理するに至ては、豈に酸鼻の極に非ずや。
故に地方官吏の直に彼等人民に接する者は、深く之に同情を表せざるべからず。然れ共試みに来りて彼等吏員と会談せよ、余は其の必ず彼等の冷淡なる口気に驚くべきを信ずるなり。
彼等吏員の多くは被害民の哀訴歎願を以て、一個虚偽の行為と解釈するが如し。只だ二三|使嗾者《しそうしや》の非行に過ぎざる者と解釈する多きが如し。而して二三の狡児が鉱毒運動を名として費用を徴集するに過ぎずとする者多きが如し。然れ共是れ正に大誤解なると同時に、此の大誤解は遂に鉱毒地人民を指して、直ちに一個の暴民団体と解了する者を出ださんとするなり。
連合上京と言へることが兇徒聚集に値するや、将た今回彼等人民の行為が触法なりや否やは余が元より言ふべき所に非ず。余は既に前掲の事実に依りて、彼等人民の解散後に処したる警官の非行を知れり。而して余は偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》之に依りて、彼等警官が平素如何に鉱毒地民を誤解し居るかを証明し得たりと信ずるなり。アヽ此の最下級官吏の誤解は上伝せられて、やがて中央政府の解釈となるなり。余は上下不通の禍機てふ者が斯かる間に伏在することを憂ふるなり。

   被害地民の意思

中央政府諸君の観察は余の知らざる所なりと雖も諸君幸に安心せよ。彼等被害地人民は共和政体を新設せんと欲するに非ず。諸君の椅子を奪はんと欲するに非ず。彼等は只だ自己一身の利害の為めに、諸君に向て救済の道を哀求するに過ぎざるなり。
三十年前に於ける鉱毒の劇甚なりし事は、最早や誰人も疑はざる所なり。三十年に於ける除害工事の命令に依つて之を防遏《ばうあつ》し得るとは、思ふに今日政府の意見ならん。而して彼等被害地民は之を然らずと主張するなり。今日の問題は過去の事実に係るに非ずして、此の新事実の上に存するなり。彼等被害民は他意あるに非ず、故に政府にして胸襟を開きて彼等に対しなば、彼等野人は先づ其の徳に向て感泣すべきなり。
余は彼等人民に接し、専制政治に慣れたる国民の如何に深く政府を尊重するかを知れり。若し夫れ鉱業より生ずる害毒に向て、是れが条理を明かにし、誠心以て之に臨まば、意外に円滑なる終局を告げて、却て民心を満足するに至らんも知るべからず。只だ政府此の道に出でず、彼等に対する宛然《さながら》非人乞食を遇するが如くす。是れ人民をして益※[#二の字点、1−2−22]怨恨
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