散後、館林附近の酒店或は飲食店等に立ち寄りて、其口腹を満たさんとするや、警官は則ち立ち入りて之を引き出だし、店主に対しては其の代金は警察署へ請求すべしと言へり。而して彼等店主は其夜、館林警察署へ出頭して時ならぬ混雑を醸《か》もせり。是れ亦た余が多くの口より同音に聞取したる所なり。
一、警官の「万歳」 此の奇怪なる報道を齎《もた》らせる者は只《た》だ一人なるが故に、余は之を語れる者の姓名を明記すべき要あり、是れ即ち上野村大字船津川の小野熊次郎と言へる人の談なり。同人も亦た被害民一行の一人なりき。解散後、六郷村字大佐貫と言へる或る民屋に入り、警官等の逐撃を避けん為めに、其の簑笠《さりつ》の装を解きつゝあるや一警部は其の後圃へ入り来れり。彼れ曰く是れ正に館林警察署長なりと。而して警部が一笛吹き上ぐるや、数十名の巡査は集り来れり。而して彼等は互に其の負傷もなくかの一行を退散し得たるを誇りつゝ、大声を放ちて万歳を連呼せり。余は館林警察署長に向て、若し其の事実に非ざる事を主張せんと欲せば、是れが挙証の責任あることを信ずる者なり。
一、雲龍寺の暴行 館林警察署長は巡査を引率して、再び雲龍寺に来れり。雲龍寺とは、鉱毒被害民の事務所となせる所にして、渡良瀬村字早川田に在り、栃木県の被害民等は帰途また此の事務所に立ち寄れるもありき。之を見るや彼等警官は腕力を以て人民を引き出だし、之に加ふるに乱打を以てせり。彼等人民は這《は》ふ/\居村へ逃れり。是れ当時同寺に居合はせたる者が共に証明して語れる所なり。
此の数者は警察官たるべき者が正当に執《と》れる職務なりと言ふべからず。是れ決して一個警官の事に非ず、日本の警察の威信に関係する重大なる問題なり。吾人は直に之を内務当局者の責任に問はんと欲するなり。
而して事は、解散前に掛れりと雖も、問題の警察に関するが為めに、爰《こゝ》に附記すべき一事あり。其は他に非ず、館林警察署が一旦野口春蔵と言へるを捉らへながら、之を解放したる一事に在り。同警察署の弁ずる所を聞くに曰く、始め野口は騎馬の儘にて多衆を引き連れ、警察署の門を入りて悪言を放てり。故に居合はせたる警官は、野口を捉らへて署内に連れ来れり。然るに多衆人民は野口を回復せんとて、押し来りければ之を防ぐの力に乏しく、人民等の欲するまに/\一旦之を放還せりと。
人民等は曰く、然らず、警官は署前に擁して、野口を拘致せり、故に我等は其不法を責めて之を回復したりなりと。事実の確否は疑獄に関聯するが故に暫く之を尋窮《じんきゆう》せざるべし。然れ共之を警官の職責より論じて、一旦拘致したる者を、空しく放還するは、是れ果して適当の処置なりや否や。否な果して其責任を辱かしめざる行為と言ひ得べきや否や。此の一事の中には、権力の濫行|乎《か》、職務の懈怠乎、二者何れかを含まざるべからず。余は之を本邦警察権の為めに普《あまね》く世の識者に訴へざるべからず。

   被害民の今後

鉱毒被害民が今後の動静如何、是れ差当りての問題なり。彼等の側面より観る時は、彼等は鎮圧されたるなり。鎮圧は平穏の徴候に非ずして、却て激昂の禍機《くわき》を包蔵する者に外ならず。
看よ、栃木県足利郡筑波村に於ては、既に断然村役場を閉鎖せり。未だ閉鎖に及ばずと雖も此の最後の手段に出でんと欲する者、尚ほ多し。彼等被害民は国家の恩沢と、国法の保護とは、己等の上に輝かざる者と憤懣し居るなり。彼等は両々、三々頭を鳩《あつ》め、声をひそめ、歎声を洩らして曰く、斯かる有様にては国の滅するも遠からじと。
余は彼等野人の口より此の真率沈痛の語を聴きて転《うた》た虔敬《けんけい》の念に堪へざるなり。此語を伝へて政府と国民とに通達するは則ち、吾人の責任なり。

   政府に警告す

足尾鉱毒事件が始めて衆議院の議場に披露せられたるは明治二十四年に在り。爾来十星霜、而して彼等被害民の意思と行為とは転一転毎に其度を高かめて、今は鉱業停止の一天張りとはなれり。世人の被害民に同情を寄する者決して尠なしとせず。而して彼等の同情も「鉱業停止」の叫声に接して躊躇逡巡するが如し。余は今ま鉱業停止問題の是非を論ずるに非ず。然れ共彼等も最初より鉱業停止を号叫したるに非ず。而して彼等をして、此の最後の声を発せざるべからざらしめたるに就ては、政府また其責任の半分を負担せざるべからず。看よ、政府は最初鉱毒有無の証迹明了ならずとの故を以て、之を避けたり。専門家の試験を経て、鉱毒の事明かなるに及びて、政府は其の害毒の程度に疑点を置きて、之を避けたり。而して此の間政府は陰然、鉱業家と被害民との中に立ちて私的示談に一任し、自ら其責任を避けんと欲したりき。若し被害地人民の一揆的運動と、田中正造氏の熱心となかりしならんには、三十年憲政党内閣の除害工事命令と被害地免租の処分
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