つて、日和下駄を響かせて、南部坂の家庭へ帰る。――目を閉ぢて回想すると、君よ、真に田園の静寂だ。
僕が今幸徳を語るを見て、「逆徒」の名を語るを見て、必ず恐怖する人があらう。戦慄する人があらう。憤怒する人があらう。
君よ。僕は逆徒を語るのではない。逆徒を擁護するのではない。「逆徒の悩み」を少しく聞いて欲しいのだ。
六
マルクスの「共産党宣言」が、幸徳、堺の二人の手に翻訳されて、平民新聞に満載された。新聞は直に発売を禁ぜられ、幸徳は発行人の名義の下に告発されて刑事の法廷へ立つことになつた。花井卓蔵、卜部喜太郎、今村力三郎などいふ当年の少壮弁護士が自ら進んで弁護の労を取つて呉れた。然る所、問題は有罪無罪でなく、思想その物が主脳であるから、この際誰か同志の中で裁判所といふ機関を通して意思を表白する必要がある――かういふ議論が起つた。それから、僕がその選に当つた。僕は忘れて、未だ弁護士の登録を取消して無かつたので、誠に都合が好かつた。
花井君が、誰かの法服を持つて来て呉《くれ》たので、早速借用して入廷した。皆んなが見て笑ふ。被告を無罪にしたいなどいふ私心から、全く離れて、高所から自由に所信を吐く――僕は始めて、ひそかに弁護士の壮美を感じた。
裁判が確定して、三十八年の春の初、幸徳は市ヶ谷の監獄へ行つた。その朝、平民社へ行くと、丁度幸徳が書物を山のやうに風呂敷に包んで居た。見ると旧新約聖書を一冊、手にして居る。
『それを、どうするのだ』
と、僕は不思議に思うて、問うて見た。
『これか――』
といつて、幸徳は気の毒さうに躊躇したが、
『牢屋で一つ、ヤソの穴探しをするんだ』
かういつて、笑つた。
病身の彼は病監に粥をすゝつて、心静かに読書と思索に耽ることが出来た。半歳の監獄生活、夏の暑い最中に帰つて来た幸徳は、最早入獄前の彼では無かつた。マルクスの共産党宣言で入獄した彼は、クロポトキンの無政府主義者として帰つて来た。彼はクロポトキンの事を「先生」と呼んで居た。
日露戦争は終りを告げて、媾和談判中、幸徳は方向転換の準備として、一年ばかり外国で静養するはずであつた。平民社は幸徳の出獄を待つて解散した。
十一月、幸徳は愈々米国へ行くことになつた。それについて、彼は一方ならずお母さんの身の上を心配した。
幸徳のお母さんは、僕の母より二つ三つ年下らしく見えた。小造りな、引締つた無病さうな体格の人で、言葉の少ない、気象の勝れた、エライ婦人であつた。幸徳は生れて間もなく父に死に別れたので、お母さんの手一つに育てられたといふことだ。お母さんは到頭故郷の土佐へ帰つて行かれた。
明日出発といふ日、角筈の幸徳の家へ行つて見ると、来客の絶え間が無い。幸徳は僕を引つ張つて櫟林へ行つた。切り株に腰をおろして、誰に遠慮もなく腹蔵なく語り合つた。
アヽ、何といふ距離ぞ。
一つの言葉が二人の間に置かれてある。「権力否定」といふ一つの言葉が、二人の間に置かれてある。幸徳は無政府主義の理論で説く。僕は神の愛でいふ。やがて話が互の一身の上に落ちた。僕はいうた。
『かうした道を行く身に取つて、年取つた母を連れて居るといふことは、如何にも心苦しい』
『うム――』
と幸徳も軽くうなづいたが、暫くして顔をあげ、
『しかし、君。母でも無かつたら、何をする気も出なからう』
かういつて、風の寒い武蔵野の暮れ行く空を、茫然とながめて居た。翌日、多勢の友人同志に見送られて、横浜を立つた。
七
戦争後の戒厳令時代。
よく「家宅捜索」が来た。
予審判事が警官を指揮して、母の病室へまで踏み込み、枕元なる箪笥の中、棚の隅々、無遠慮に取り乱して物を探す――母は白髪頭を枕につけたまゝ、目を閉ぢて、眉一つ動かさない。捜索隊が去つてしまつても、何一つ口にしない。まるで、何事があつたかも知らぬやうな顔をして居て呉れた。
平民社解散の後、僕は石川三四郎君を勧めて「新紀元社」を樹《た》てた。キリスト教社会主義とでも、いへばいへよう。徳富蘆花君を引つ張りだした。安部君も助けてくれた。田添鉄二君といふ青年哲人が助けてくれた。月刊雑誌の外に、日曜日の講演会を開いた。
三十九年の五月六日、これは日曜日であつた。母の脈搏が変つたから外出を見合はすやうにといふ妻の注意に、午後の講演会を断つて、母の側について居た。枕頭には妻が居る。裾の方には、医者が居て呉れた。日が障子に当つて、明るい静かな真昼時、母は眠つたやうに六十八年の呼吸を引き取つた。
僕の十九の学生時代に、父は死んだ。父の目には、こんな子にさへ一縷の希望を繋いで死んで行つてくれた。けれど母には、一日の喜びも与へず、苦労に苦労の一生を終らせてしまつた。
母の跡片づけも済んで、さてこれから新鋭の気を以て、
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