社の方面へは、蛇蝎のやうに響いて居た。
この埼玉における公娼反対の成功が、やがて東京における廃娼運動の勃興を促し、更に多方面へ大小幾多の波瀾を及ぼし、その結果、内務省が急に省令を出して「娼妓の自由廃業権」を承認せねばならぬことになつた。
四
新聞社へ幸徳が尋ねて来た。僕の顔を見るといきなり、
『おい、社会党をやらう』
『ウム、やらう』
かういつて、立つたまゝ、瞬きもせずに見合つて居たが、やがてニツコと笑つて、直ぐに彼は帰つて行つた。
日を経た後『創立委員会を開くから、呉服橋外の鉄工組合事務所へ来て呉れ』
と、幸徳から知らせて来た。
どんな顔が寄るかと思ひながら行つて見た。安部君が来て居る。片山君が来てゐる。西川光二郎君といふ「労働世界」の年少記者を、片山が連れて来て居る。「万朝報」の河上清君といふが来て居る。それに幸徳と僕、都合六人だ。
当時の事だから、お手本は自然ドイツだ。名称は「社会民主党」少し明細な「宣言書」をだす事。宣言書は、幸徳の文章でやるべき所だが、幸徳は辞退して先輩に譲つた。衆望で、安部君が筆をとることになつた。費用は、差当り五円持ち寄りの三十円。幹事二名――片山君と僕。事務所は、神田仲猿楽町の僕の借宅。
我等の顔は、雲霞の如き前途の希望に輝いた。けれど、幹事といふ僕の眼前には、差迫つた一つの問題がある。党が成立した上は、直ぐ世間へ発表せねばならぬ。東京を振り出しに、西は名古屋、京都、大阪、東は仙台――せめてこれくらゐのところでは、一つ集会をやらねばならぬ。然る所、安部君は教授の繋累で、地方出張の時間の自由が無いといふ。幸徳は、『僕は筆でやるから、演説は是非勘弁して呉れ』といふのだ。
片山君は学問もあり経験もある。彼が一たび憎悪に燃えて、野獣の如く叫ぶ瞬間、頑強粗野な体躯面貌は、あたかも岩石の聳ゆる如くに聴衆を圧倒する。然しそれがもし壺にはまらぬ場合、兎角満場倦怠の不安がある。
今や我等は、同志の前へ行くのでは無い。軽蔑と嘲笑との中へ踏み込んで、征服し啓発して行かねばならぬのだ――
こんなことをひとり思うて居ると、届け出てから五六日、警察署の呼出状が来た。行つて見ると警視庁の「禁止命令」だ。
さて、政府は党を禁止したのみでなく、宣言書を載せた新聞紙をことごとく告発した。この時まで一般社会は、社会党の問題に対しで、「書生輩の児戯」以上、実は未だ一向に注意を払つて居なかつたものだ。「禁止」次いで「告発」――世間は始めて漸く目を見張つて来た。
都下の新聞社がいづれも有罪の判決を受け、法の明文に従つて判決書の全文を各紙上に満載した時、犯罪の主体たる「宣言書」が、改めて全部判決書中に掲げられて再び紙上に現はれた時、読者は新奇の熱情に誘はれて、一字も余すまじと精読した。かうした不思議な因縁で、「社会主義」といふ記憶が電気メッキの如くに、国民の心裏に焼きつけられてしまつた。
ユニテリヤン協会では、今や「社会主義研究会」の看板を持て余ました。それを我々の方へ貰ひ受けて「社会主義協会」と塗り替へて、毎月講演会など開くことにした。三十六年の暮、日露両国の交渉が危機に迫つた時「非戦論」を発表したのも、この社会主義協会だ。
五
幸徳が中心に立つ時が来た。幸徳が「非戦論」で「万朝報」を退社したといふことは、当時の青年への一大衝動であつた。彼は同問題で一緒に進退を決した堺利彦君と二人で、数寄屋橋角の古長屋に「平民社」を新設し、「平民新聞」といふ週刊新聞を発行した。堺君といふ人と提携したことが、実に幸徳の幸福であつた。
幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐ろに肝胆を吐く時、一種の精気――鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ。彼は虚弱でよく病んだ。
堺君は常識の人、事務の人、強健で快※[#「さんずい+闊」、第4水準2−79−45]、一切万事一人で忙がしく切つて廻すところに、堺君の興味があつた。堺君のゐるところには、初夏のやうな晴れやかさがあつた。
当時の青年が要求したものは、実は成形した思想などでは無かつた。彼等は混沌を渇望した。大混沌を渇望した。大混沌裏の大創造を渇望したのだ。この渦巻いてゐる若い熱ガスのために、一個の小噴火口を与へたのが、幸徳の平民新聞であつた。
嗚呼、当時の東京――
僕は、夕方尾張町の新聞社から平民社へ立寄つた。数寄屋橋角の石垣は、まだ昔のまゝに高く残つて居り、濠端には、竜のやうな老松が、鬱蒼と茂つて居た。電車は開通し始めて居たが、自動車などは夢にも無い。街頭でも家の中でも、ランプとガスだ。
母が甘い物を好んだので、平民社の直ぐ隣の塩瀬で、よくあんころもちを買つて帰つた。日比谷へ出て、芝の山内を抜け、一の橋、二の橋、中の橋を渡り、仙台坂を上
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