やん、頭の禿《は》げたなどは特別恐れ入りやしたわけで」と丸井は赤光《あかびかり》の脳天ポンと叩いて首を縮む、
「御免の毒様でしたワねエ」と花吉も口を掩《おほ》うてホヽと笑ふ、

     九の四

「大事な所を禿顱《はげあたま》で、花ちやんにケチを付けられて仕舞《しま》つた、デ、篠田先生、其れから何《どう》なりました、全《まる》で小説の様でげすなア」と、丸井玉吾は煙草《たばこ》に点火しつゝ後を促《うな》がす、
「所で、今ま貴女の仰《おほ》せられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃|小米《こよね》と申す婦人を外妾《めかけ》の如く致して居たので、雇主《やとひぬし》――其の芸妓屋《げいしやや》に於ては非常なる恐慌《きやうくわう》を喫《きつ》し、又た婦人の実母《はゝ》からは、独断に廃業などして、小千円の負債の為めに両親が訴へられても顧みない量見かと云ふ様な脅迫に及ぶ、婦人も実に進退|谷《きは》まつて、最後の書状を兼吉へ送り越したのです、――到底《たうてい》自分は此の苦境を逃がれることの出来ぬ何等過去の業果と思ふから、此の肉体をば餓鬼《がき》の如き男子の飜弄《ほんろう》に一任するが、然《し》かし郎君《あなた》を良人《をつと》と思ふ心に曾《かつ》て変動を見たることの無いのは、神仏の前に誓言することが出来る、で、此の心が何時《いつ》か肉体を分離したる未来世《みらいせ》に於ては、幸に我妻と呼んで呉《く》れよと云ふ意味を、縷々《るゝ》認《したゝ》めてありました、言々《げん/\》是《こ》れ涙、語々《ごゝ》是れ血と云ふのは多分|此《かく》の如きものであらうと感じたのです」
「して、其の手紙は今も何処《どこ》にか残つて居ませうか」と流石《さすが》三面記者の丸井老人、直ぐ種取的《たねとりてき》の質問、
「左様《さやう》、兼吉は大切に深く懐中に納めて居ましたから、今は必ず監獄署に預かつて居るでありませう――彼は其手紙を握り占めて真に血涙を絞《しぼ》りました、遊惰なる富民の獣慾の為めに、清浄無垢《せいじやうむく》なる少女の節操の揉躙《じうりん》せらるゝのを却《かへつ》て喝釆《かつさい》歓喜する社会は果して成立の理由があるかと憤慨して、彼は実に泣きました、丸井さん、日本では切《しき》りに虚無党を悪口致しますが、現在の社会と比較するならば、虚無党の主張の方が寧《むし》ろ確《たしか》に真理に近いものです――私も百方慰め励まして、無分別のこと仕ない様に注意して、丁度《ちやうど》、夜の十時過、老母《ばゝ》が待つてるからと、帰つて行きましたが、翌朝新聞を見ますると、職工の芸妓殺《げいぎころし》と云ふ二号|題目《みだし》の二版がある、――アヽ、何故《なぜ》無理にも前夜一泊させなかつたかと、実に悔恨《くわいこん》の情に堪へませんでした」
 篠田は暫《しば》らく瞑目《めいもく》しつ「昨日も監獄へ参つて面会致しましたが、彼れも実に夢の様であると申して居ました、――何でも西本願寺辺まで来ました時が、既に十二時近くであつたさうですが、何《いづ》れの家も寝静まつた深夜の、寂寞《せきばく》の月を践《ふ》んで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると、婦人《むかふ》は『イヽエ、米《よね》ではありません、米は最早《もう》死んで仕舞ひました、是れは迷つてる米の幽霊です』と云つて面《かほ》をそむけて仕舞《しま》つたさうです、兼吉の言ひますに、其れ迄は記憶して居るが後は何《どう》したか少しも覚えない、不図《ふと》気が付いて見ると、自分は左腕《ひだり》で血に染まつた小米の屍骸《しがい》を仰《あふむ》けに抱いて、右手に工場用の大洋刀《おほナイフ》を握つて居たと云ふのです」
 ジツと聴き居たる花吉は窃《そつ》と涙を拭《ぬぐ》ひつ身を顛《ふる》はして、
「彼晩《あのばん》は貴下《あなた》、香雪軒で桂さんだの、曾禰《そね》さんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが大盃《コツプ》でお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、何《どう》したんだらうつて皆《みん》な不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方が可《い》いつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから門跡様《もんぜきさま》へ参詣《おまゐり》したのです、何事も前世からの約束ですワねエ」
「承れば先生、兼吉の老母《おふくろ》を御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で」
「イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男の家《うち》と、女の家《うち》を調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、是《こ》れと申すも手前共の悪るかつたからで、聊《いさゝ》か兼吉を怨む筋は無いと悔《く》いて居りまする
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