》れでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を一瞥《いちべつ》しつ)仰《お》つしやる通り実に気の毒でした、然《し》かし彼女《かのをんな》が彼《あ》の如くして生きて居たからとて、一日と雖《いへど》も、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚を有《も》つことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をば外《はづ》れてたでせう、が、生まれて此《かく》の如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、女性《をんな》としての満足なる生涯《しやうがい》では無いでせうか」
「ナ、成程」
花吉は黙つて篠田を凝視《ぎようし》せり、
九の三
「多くの新聞には、兼吉が是れ迄も数々《しば/\》小米《こよね》と云ふ婦人に金の迷惑を掛け、今度の凶行も、婦人が兼吉の無心を拒絶したから起つたかの如く、書かれてありましたが、あれは丸井さん、兼吉の為めに気の毒の至極《しごく》です」と、篠田は其談を継続しぬ、
「兼吉と云ふ男は決して其様《そん》な性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、遊蕩《いうたう》などしたことなく、老母には極《きは》めて孝行で、常に友達の為めに借金を背負《しよ》はされて居た程です、何《ど》うも日本では今以て、鍛冶工《かぢこう》など云へば直《ただち》に乱暴な、放蕩三昧《はうたうざんまい》な、品格の劣等の者の如く即断致しますが、今日《こんにち》の新職工は決してソンなものでは無いですからな、――今春《このはる》他の一人の職工が機械で左腕《うで》を斬り取られた時など、会社は例の如く殆《ほとん》ど少しも構はない、已《や》むを得ず職工同志、有りもせぬ銭《ぜに》を出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、此儘《このまゝ》にしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕を携《たづさ》へて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、其裾《そのすそ》を捉《とら》へて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍|暴戻《ばうれい》を涙を揮《ふる》つて論じたのには、サスがの柿沢君も一言《いちごん》の答弁が無《なか》つたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか」
「しますると、兼吉と小米との交情《なか》は如何《いかが》致したと申すのでげすナ」
「御尤《ごもつとも》です、新聞には大抵、小米と申すのが、未《ま》だ賤業《せんげふ》に陥《おちい》らぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母《はゝ》から出た誤聞であります、兼吉と彼《か》の婦人とは幼少時代からの許嫁《いひなづけ》であつたのです、然《しか》るに成人するに及《およん》で、婦人の母と云ふが、職工|風情《ふぜい》の妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも芸妓《げいしや》にして仕舞《しま》つたので――其頃兼吉は呉港《くれ》に働いて居たのですが、帰京《かへ》つて見ると其の始末です、私《わたし》も数々《しげ/\》兼吉の相談に与《あづ》かつたのです、一旦《いつたん》婦人の節操を汚がしたるものを娶《めと》るのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか如何《どうか》と云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は彼女《かのぢよ》の節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか如何《どうか》――所が彼の言ひまするには、私は決して左様《さう》は思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです」
「ほんたうに小米さんの様な温順《やさし》い人はありませんでしたよ」と、花吉は、吐息《といき》を漏《も》らしぬ、
「左様《さう》であつたとのことですナ」と篠田は首肯《うなづ》き「然《しか》らば君、少しも憚《はばか》る所は無い、速《すみやか》に彼女《かれ》を濁流より救ひ出だして、其愛情を全うするが可《よ》いと、忠告致しました、所が彼は躊躇《ちうちよ》して、けれど彼女《かれ》は千円近くの借金を背負《しよ》つてるのでと悶《もだ》へますから、何を言ふのだ、霊魂を束縛する繩が何処に在ると励ましたのです」
「へヽヽヽ先生、御得意の自由廃業でげすな」と、丸井はツルリ禿頭《あたま》を撫でぬ、
「左様です、不道徳なる負債は、弁償の義務がありません、否《い》な、弁償を迫る権利がありません、――それで婦人も非常に喜んだサウです、所が何とか云ふ貴族院議員が――」
と篠田の暫《し》ばし其名を思ひ出し得ざるに、花吉が「あの、金山《かなやま》伯爵でせう、――小米さんも嫌《いや》がつて居たんですよ、頭の禿《は》げた七十近い老爺《おぢい》さんでしてネ」
「花ち
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