余ある所、好個の外務大臣とも言ふべかりける、「時に」と、河鰭《かはひれ》は真赤に酔うたる顔突き出し「是《ぜ》ツ非《ひ》、花ちやんに御依頼の件があるのだが」とサヽやくを、
「身に協《かな》ふことならば」と、花吉の芝居懸《しばゐがか》りに行く、
「否《い》や、戯謔《じやうだん》ぢやない、今度は真面目《まじめ》の話だ――ソレ、彼《あ》の向ふに北海道土人の阿房払《あはうばらひ》宜しくと云ふ怪物《けだもの》が居るだらう、サウ/\、あの丸井の禿顱《はげ》と話してる、――彼奴《あいつ》誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の面汚《つらよごし》のだ、其処《そこ》で今夜|彼奴《きやつ》の来たのを幸《さいはひ》に、我党の人にして遣《や》らうと思ふんだ」
「河鰭さんの我党などにはならない方が可《よ》う御座んすよ」
「オイ/\飛んだことを言ふ――デ、彼奴《きやつ》に一杯、酒を飲ませて遣《やら》うと思ふんだが、我々の手では駄目だから、是《こゝ》に於《おい》てか花吉大明神の御裾にお縋《すが》り申すのだ」
 妙案々々、賛成々々など何《いづ》れも叫ぶ、
「人がましくも、殿方が頭《つむり》を下げての御依頼《おんたのみ》とあるからは、そりや随分火の中へも這入《はひ》りませう、してお名前は」
「篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田」
「ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう」
「さうだ/\、其のとほりの野暮天《やぼてん》なんだから、是非花ちやんの済度《さいど》を仰ぐのだ」
「其に彼奴《きやつ》は非戦争論者で松島君の仇敵なんだ」と叫ぶもあり、
「花ちやん、一つ松島君を操縦するの余力を以て」と河鰭の言ふを「そんな、お弄《なぶ》りなさるなら、否《い》や」とツンとスネる、
「真平々々《まつぴら/\》、是れだ/\」と手を合はすを、
「驚いたことねエ、河鰭さん、」と微笑《ほゝゑ》みつゝ花吉は、小盃《ちよく》を手にしてスイと起てり、

     九の二

 一隅の数名は、何れも酔眼を上げ、視線を花吉に注ぎつつあり、三々伍々と入り乱れたる会衆の間を縫ひつゝ花吉は、ヤガて篠田が座を占めたる他の一隅にぞ進みける、花吉は顧みて河鰭等と遙《はるか》に目くばせしつ、ピタリ座に着きて膝を進めぬ、「篠田さん、――河鰭さんから」
 談話に余念なかりし篠田は、始めて顔を上げぬ、看《み》よ、一個の佳人、慇懃《いんぎん》に盃《さかづき》を捧げつゝあり、
 篠田は膝《ひざ》に手を置きて「私《わたし》は酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、私《わたし》は一切、用ひませぬから」
 丸井老人ニユウと禿顱《はげあたま》突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なき業《しわざ》なり、斯《か》かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと猿臂《ゑんぴ》を延ばして、彼女《かれ》の手より盃《さかづき》を奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に一盞《いつさん》を傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒の方《かた》の代理と云ふ法も無《ない》わけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は奇麗《きれい》に光る禿顱《とくろ》を燈下に垂れて、ツル/\と撫《な》で上げ撫で下ろせり、花吉は絹巾《ハンケチ》に失笑《をかしさ》を包みて、窃《そ》と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の芸妓殺《げいしやころし》――小米《こよね》の一件に就《つい》て先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝ盃《さかづき》差し出《いだ》す、
 花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、彼《あ》の晩もネ、香雪軒《かうせつけん》の御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅク厭《いや》になつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の帰路《かへり》にヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い事情《わけ》があるんですツてネ」
「サ、其の男の方《はう》を此の篠田先生が能《よ》く御存《ごぞんじ》なので、色々御話を承つて居たのだがネ」
 丸井は火鉢の上に身を屈《かが》めつゝ「ぢや、先生、其の兼吉《かねきち》と云ふのほ、恋の協《かな》はぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
「左様《さう》です、彼は決して嫉妬《しつと》などの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟《ひつきやう》、自分の最愛の妻――仮令《たとひ》結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な其《そ
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