が、母親の方は非常な剣幕《けんまく》で、生涯楽隠居の金蔓《かねづる》を題無しにしたと云ふ立腹です、――女性《をんな》と云ふものは、果して此《かく》の如く残忍酷薄なものでせうか」
丸井玉吾は鹿爪《しかつめ》らしく首傾け「成程――花ちやん何《どう》でげすな」
「丸井さん、ほんとに女性《をんな》の方が酷《ひど》いんですよ」
篠田は首打ち振りぬ「其れが女性《をんな》の本来でせうか――必竟《ひつきやう》女性を鬼になしたる社会の罪では無いでせうか」
丸井は禿顱《あたま》を撫《な》でぬ「御最《ごもつとも》で」
襟かき合はせて花吉は、目を閉ぢぬ、
十
烏森は新春野屋の長火鉢を中に、対座したる主婦《あるじ》のお六と芸妓《げいしや》の花吉、
「ぢや、花吉、お前|何《どう》するツて云ふんだ」と、お六は簪《かんざし》もて頭掻きつゝ、顔打ちしかめ「濁水《どろみづ》稼業をして居る身の、思ふ男に添ひ遂げることの出来ない位は、お前《めえ》だつて、百も承知だらうぢやないか、是れが松島さんの奥様《おくさん》になれつて云ふのなら野暮な軍人の、おまけに昔気質《むかしかたぎ》の姑《しうと》まであるツてえから、少こし考へものなんだが、お前《めえ》、妾なら気楽なもんだあネ、厭《いや》になつたら何時でも左様《さやう》ならをキメるまでサ――大洞《おほほら》さんもサウ仰《おつ》しやるんだよ、決して長くとは言はない、露西亜《ロシヤ》の戦争《いくさ》が何方《どつち》とも定《き》まるまでの所、厭《いや》でもあらうが花ちやんに、放鳥の機嫌《きげん》を取つて貰はにやならないのだからつて――私《わたし》だつて、赤児《あかんぼ》の時から手塩にかけたお前《めえ》のことだもの、厭だつてもの無理にと言ひたかないやね、けれど平素《いつも》利益《ため》になつてる大洞さんのお依頼《たのみ》と云ひ、其れにお前も知つての通りの、此の歳暮《くれ》の苦しさだからこそ、カウやつて養女《わがこ》の前へ頭を下げるんぢやないか、お前《めえ》是れでも未だ解からねえのかエ」
花吉はがツくり島田の寝巻姿《ねまきすがた》、投げかけし体《からだ》を左の肱《ひぢ》もて火鉢に支《さゝ》へつ、何とも言はず上目遣《うはめづか》ひに、低き天井、斜《なゝめ》に眺めやりたるばかり、
お六は煙草|燻《くゆ》らしつ、「一昨日《をとゝひ》の晩も『浪の家』から、電話ぢや能《よ》く解らないツてんで態々《わざ/\》使者《ひと》まで来たぢやないか、何が面白くて湖月などにグヅついてたんだ、帰つたと思《お》もや、頭痛がするツて寝て仕舞つてサ、昨日も今日も御飯もたべず、頭が痛えか、腰が痛えか知らないが、一体まア、何《どう》思つて居るんだ」
去《さ》れど花吉は答へんともせず、
ポンと、お六は灰吹叩きつ「花吉ツ、耳が無《ね》いのか、お前《めえ》の目にや、私《わたし》と云ふものが何と見えるんだ、――何処《どこ》の者とも知れねエ乞食女の行倒《ゆきだふれ》の側に、ヒイ/\泣いてる生れたばかりの女の児が、余《あんま》り可哀さうだつたから拾ひ上げて、乳の世話から糞尿《おしめ》の世話、一人前に仕上げる迄、何程《どれほど》の苦労だつたとも知れたもんぢやない、チヨツ、新橋の花吉が一人で出来たとでも思ふのか、オイ花吉、此の生命《いのち》は誰のお蔭《かげ》だよ」煙管《きせる》取り上げて、花吉の横顔、熱き雁首《がんくび》にて突ツつきぬ、
花吉は瞑目《めいもく》して頭《かしら》を垂れぬ「其の御講釈なら、養母《おつか》さん、最早《もう》承はるに及びません、何の因果《いんぐわ》でお前の手などに拾はれたものかと、前世の罪業が思ひやられますのでネ」
「何だ」といきまく養母の面《おもて》、ジロリ横目に花吉は見やりつ「ハイ、乞食の母《おや》の懐《ふところ》で、其時泣き死《じに》に死んだなら、芸妓《げいしや》などになり下《さが》つて、此様《こんな》生耻《いきはぢ》曝《さら》さなくとも済んだでせうにねエ」唇|噛《か》み〆《し》めて、ツと面《かほ》を背向《そむ》けぬ、
「ナニ、芸妓になり下つたト、――余《あん》まりフザけた口きくもんぢやない、乞食の女《こ》でも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか」
「大臣が何だネ、養母《おつか》さん、お前は大臣なんてものが、其様《そんな》に難有《ありがたい》のかネ、――私《わたし》に取つちや一生忘られない仇敵《かたき》なんだよ――、あゝ、思うても慄《ぞつ》とする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか」
「三月十五日が、何《どう》したと云ふんだ」
「お前が私《わたし》を拾つて下すつたのは、今から二十年前の師走《しはす》の廿五日、雪のチラつく夕間暮《ゆふまぐれ》と能《よ》くお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六
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