と見做《みな》しつゝあり、思ふに日本国民の多数も亦《ま》た露西亜を以て暴熊視《ばういうし》しつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間《このあひだ》に立ちて曾《かつ》て同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、啻《ただ》に是《こ》れのみならず、彼等の嫉妬《しつと》、憎悪《ぞうを》、奪掠《だつりやく》、殺傷の不義非道に煩悶《はんもん》苦悩するを観《み》て、愈々《いよ/\》現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬《ごびう》あることを正確に証明せり、
 欧米列国は日本に党《くみ》せん、去れど独逸《ドイツ》は露西亜《ロシヤ》の友邦なるべしとは、殆《ほとん》ど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、然《しか》れ共《ども》諸君よ、我等は此際分析を要するに非《あら》ずや、敢《あへ》て問ふ、謂《い》ふ所の独逸《ドイツ》とは則《すなわ》ち何ぞや、彼等は軽忽《けいこつ》にも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なる哉《かな》独逸皇帝よ、汝は今夏《こんか》の総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、曰《いは》く社会党は祖国に取つて不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力に依《よつ》て我独逸の社会党は、忽然《こつぜん》八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義に繋《つな》がるゝ全|兄弟《けいてい》の勝利なり、独逸皇帝、彼は憐《あはれ》むべき一個の驕慢児《けふまんじ》なるのみ、
 世の露西亜《ロシヤ》を言ふもの、亦《ま》た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にして未《いま》だ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきが故《ゆゑ》に、之を公然証明すること能はずと雖《いへど》も、如何《いか》に自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々《じゝ》喧伝《けんでん》せらるゝ学生、農民、労働者の騒擾《さうぜう》に依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
 陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、然《しか》れ共《ども》彼に取《とつ》て目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣に依《よつ》て外国侵略を計画しつゝある時、看《み》よ、社会主義の福音《ふくいん》は既に軍隊の内部に瀰漫《びまん》せんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工に向《むかつ》て進軍を肯《がへ》んぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光《しよくわう》を見たり、
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 渡部の声は激動せり、其面《そのかほ》は赤く輝けり、冷茶|一喫《いつきつ》、彼は其の温清なる眼《まなこ》を再び紙上に注ぐ、
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 露西亜《ロシヤ》には我等社会民主党の外に社会革命党あり、彼はバクニンの系統に属するものなり、我等は今日《こんにち》に於て未《いま》だ両者の融和を見る能《あた》はざるを悲むと雖《いへど》も、其の漸次《ぜんじ》接近親和すべきは疑を要せず、蓋《けだ》し今日に於て皇帝の生命を狙《ねら》ふが如きは、皇帝を了解せざるの甚《はなはだ》しきものなればなり、我等は露西亜皇帝に対して深厚なる一種の惰感を有す、※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》は尊敬に非ずして憐憫《れんびん》なり、世界の尤《もつと》も気の毒なるもの恐くは露西亜皇帝ならん、彼は囚人なり、只だ錦衣玉食《きんいぎよくしよく》するに過ぎず、
 露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来に非《あらざ》るべし、諸君を羨《うらや》むの間も、蓋《けだ》し暫時ならんか、
 狂犬をして血に吼《ほ》えしめよ、
 去れど我等は兄弟なり、
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 渡部は椅子に復せり、拍手は起れり、
「けれど普通選挙を得ざる我等と露西亜と、何の相違がある」と行徳はツブやきぬ、

     七の三

「最早《もう》、虚無党の御世話になる必要は無いよ、クルップの男色を発《あば》いてやれば、忽《たちま》ち頓死《とんし》するし、伊大利大蔵大臣の収賄《しうわい》を素破抜《すつぱぬ》いてやれば直《ただち》に自殺するしサ、爆裂弾よりも筆の方が余ツ程力があるよ、僕は彼奴等《きやつら》の案外道義心の豊かなのに近来ヒドく敬服して居るのだ」揶揄《やゆ》一番、全顔を口にして呵々大笑《かゝたいせう》するものは、虚無党首領クロパトキン自伝の愛読者|菱川硬次郎《ひしかはかうじらう》なり、其の頓才に満座|俄《にはか》に和楽の快感を催《もよ》ほせり、彼は炭を投じて煖炉の燃え立つ色を見やりつゝ「何の運動でも、婦人が這入《はひ
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