打つたのが服部時計台《はつとり》の十一時の様だ」
「時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何か甘《うめ》い商売でも見付けたかな」
「大違《おほちげ》エよ、此夏脚気踏み出して稼業《かげふ》は出来ねエ、嬶《かゝあ》は情夫《をとこ》と逃走《かけおち》する、腰の立《たゝ》ねエ父《おや》が、乳の無《ね》い子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時|頗《すこぶ》る安泰だと云ふことだ」
「ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だが却《かへつ》て幸福《しあはせ》だ、乃公《こちとら》の様にピチ/\してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、愈々《いよ/\》となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ」
雨|一《ひ》としきり降り増しぬ、
「そりや、貴様《てめい》のやうな独身漢《ひとりもの》は牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり小児《こども》がありすると、さう自由にもならねエのだ」
「独身漢《ひとりもの》/\と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ東京《こつち》で車を挽《ひ》いててお呉《く》れ、其れ程人夫になりたくば、私《わたし》を殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、昨夜《ゆうべ》烏森《からすもり》の玉翁亭《ぎよくをうてい》に車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎|多衆《おほぜい》巡査を連れて来やがつて、少し我達《おれたち》の利益《ため》になることを云《いふ》と、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押し掛《かけ》て、警視庁が車夫の停車場《きやくまち》に炭火を許す様に骨折て欲《ほし》いつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも早稲田《わせだ》の書生さんテことだが、目を剥《む》き出して怒つた、つかみ掛りサウな勢《いきほひ》だつたが、少し年取つた人が手を抑へて、斯様《こんな》警部など相手にしても仕方が無い、斯《か》うしなければ警察官も免職になるのだから、寧《いつ》そ気の毒ぢやないかツてんで、僅々《やう/\》収まつたが、――一体政府の奴等、吾達《おれたち》を何と思つて居やがるんだ」
「そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、軍艦《ふね》造《つく》るの、戦争《いくさ》するのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、桂《かつら》大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な大普請《おほふしん》だ」
「今日も新聞で見りや、媽《かゝあ》の正月の頸《くび》の飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや下民《しものもの》の首が回《ま》はらなくても可《い》いと言ふのか、ベラ棒め」
「何《いづ》れ一と騒動なくば収まるめエかなア」
銀座街頭の大時計、眠《ね》む気に響く、
「オ、もう十二時だ、長話しちまつた」
「でも未《ま》だ平民社の二階にや燈火《あかり》が見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い/\」
七の二
平民週報社の楼上を夜深《よふ》けて洩るゝ燈火《ともしび》は取り急ぐ編輯《へんしふ》の為めなるにや、否、燈火の見ゆるは編輯室にはあらで、編輯室に隣れる社会主義倶楽部の談話室なり、
燈下、卓上《テーブル》を囲むで椅子《いす》に掛かれる会員の六七名、
直に目に映《うつ》るは鬚髯《しゆぜん》蓬々《ぼう/\》たる筒袖の篠田長二なり「では、差当り御協議したいと思つたことは、是れで終結を告げました――少こし時間《とき》は後《おく》れましたが、他に御相談を要する件がありますならば――」
外国通信委員|渡部伊蘇夫《わたべいそを》は卓上に堆積せる書類の中より一片紙《いつぺんし》を取り上げつ「露西亜《ロシヤ》のペテルブスキイ君から今日《こんにち》、倶楽部宛の書面が来ました、順々に御覧下ださいませうか」
烟草《たばこ》燻《く》ゆらし居たる週報主筆|行徳秋香《かうとくあきか》「渡部さん、恐れ入りますが、お序《ついで》にお誦《よ》み下ださいませんか」「其れが可《い》い」「どうぞ」
「ぢや、読みませう」渡部は起てり、
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主義に於《おい》て常に相親交する、未《ま》だ見ぬ日本の兄弟諸君、
余は今ま露西亜《ロシヤ》に於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々《こもごも》胸間に往来して、幾度《いくたび》も筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察《りやうさつ》せよ、
今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場に向《むかつ》て急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼《かうらう》
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