、印刷までしたプログラムから弁士の名まで削られたんでせう、普通の人で誰がソンな所へ行くものですか、先頃も与重《せがれ》が青年会のことで篠田様に何か叱かられて帰つて来ましてネ、僕は篠田先生の為めなら死んでも構はんて言ふんです、――教会も最早《もう》駄目です、神様の代りに、黄金《かね》を拝むんですから」
五の二
何万坪テフ庭園の彼方《かなた》此方《こなた》に設けたる屋台店《やたいみせ》を、食ひ荒らして廻はる学生の一群《ひとむれ》、
「オイ、大橋君、梅子さんが見えぬやうぢやないか」
「又た井上の梅子さん騒ぎか、先刻《さつき》一寸見えたがナ、僕は何だか気の毒の様に感じたから、挨拶もせずに過ぎたのサ、彼女《むかう》でも成るべく人の居ない方へと、避《さけ》てる様子であつたからナ、山木見たいな爺《おやぢ》に梅子さんのあると云ふは、君、正に一個の奇跡だよ」
「ほんたうに左様《さう》だネ、悪魔と天女、まア好絶妙絶の美術的作品とはアレだらうか、僕は昨夜《ゆうべ》も演説会で、梅子さんの為めに、幾度同情の涙を拭いたか知れないのだ、彼《あ》の美しき歌も震《ふるひ》を帯んで、洋琴《オルガン》は全く哀調を奏でて居たぢやないか、――厳粛に座《すわ》つて謹聴してる篠田先生の方を、チヨイチヨイと看《み》て居なすツたがネ、其胸中には何等の感想が往来してたであらうか、――先生は是れ罪なき犠牲の小羊、之を屠《ほふ》る猛悪の手は則《すなは》ち自分の父」と語り来《きた》れる井上は、俄《にはか》に声を荒らげて「見給へ、剛一は愈々《いよ/\》奸党に定《き》まつたよ、僕等でさへ先生の誠心に動かされて退会の決議を飜《ひるが》へし、今日も満腔《まんかう》の不平を抑へて来た程ぢやないか、剛一何物ぞ、苟《いやしく》も己《おのれ》が別荘で催ふさるゝ親睦会であつて見れば、一番に奔走|斡旋《あつせん》するのが当然だ、然るに顔さへ出さぬとは失敬極まるツ」
大橋は首打ち振り「否《い》な、彼の今日《こんにち》来ないと云ふのが、彼の我党たる証拠だよ、彼は爺《おやぢ》の非義非道を慚愧《ざんき》に堪へないのだ、彼は今や小松内府の窮境に在《あ》るのだ、今頃は、君、自宅《うち》の書斎で涙に暮れて祈つてるヨ」
「左様《さう》か知ラ」と井上は首を傾けしが、俄《にはか》にノゾき込んで声打ちひそめ「君、僕は昨夜《ゆうべ》からの疑問だがネ、梅子さんの胸底には若《も》し、恋《ラブ》が潜んでるのぢや無からうか」大橋は莞爾《につこ》と打ち笑み「勿論《もちろん》! 彼女の心が恋愛《こひ》の聖火に燃ゆること、抑《そ》も一朝一夕の故《ゆゑ》に非らずサ、遂《つひ》に石心木腸《せきしんもくちやう》なる井上与重の如きをして、物や思ふと問はしむる迄に至つたのだ、僕の如きは疾《とく》の昔から彼女をして義人を得、彼をして才色兼備の良婦を得せしめ給はんことを祈つて居るんだ」
「成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ」
「所が、君、一《ひ》と通《とほり》のことで無いので、作者|頗《すこぶ》る苦心の体《てい》サ――さア行かう、今度は彼《あ》の菊の鮨屋《すしや》だ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ」
既にして群集《ぐんじゆ》の眸子《ぼうし》、均《ひと》しく訝《いぶ》かしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿|忽然《こつぜん》として其処に現はれしなり、
「先生|来《らい》」と学生の一群は篠田を擁して躍《をど》り行きぬ、
お加女《かめ》夫人は遙《はるか》に之を見て顔色|忽《たちまち》ち一変せり、「まア、何と云ふヅウ/\しい奴でせう、脅喝《ゆすり》新聞、破廉耻漢《はぢしらず》」
長谷川夫人も顔打ちひそめつ「ほんとに驚いて仕舞ふぢや御座いませんか」
庭樹の茂《しげり》に隠れ行く篠田の後影《うしろかげ》ながめ遣《や》りたる渡辺老女の瞼《まぶた》には、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お暇乞《いとまごひ》の御積《おつもり》なんでせう」
篠田はやがて学生の群と別れて、独《ひと》り沈思の歩《あゆみ》を築山の彼方《あなた》、紅葉|麗《うる》はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、梢《こずゑ》に来鳴く雀の歌も閑《のど》かに、目を挙ぐれば雪の不二峰《ふじがね》、近く松林の上に其|頂《いただき》を見せて、掬《すく》はば手にも取り得んばかりなり、心の塵《ちり》吹き起す風もあらぬ静邃閑寂《せいすゐかんじやく》の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、映《うつ》して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋《あづまや》に近《ちかづ》きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方《こなた》を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令
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