れたる角筈村《つのはずむら》の、山木剛造の別荘の門には国旗|翩飜《へんぽん》たる下《もと》に「永阪教会廿五年紀念園遊会」と、墨痕《すみあと》鮮かに大書せられぬ、
数寄《すき》を凝《こ》らせる奥座敷の縁に、今しも六七名の婦人に囲まれて女王《によわう》の如く尊敬せらるゝ老女あり、何処にてか一度拝顔の栄を得たりしやうなりと、首を傾けて考一考《かういつかう》すれば、アヽ我ながら忘れてけり、昨夜芝公園は山木紳商の奥室に於て、機敏豪放を以て其名を知られたる良人《をつと》をば、小僧|同然《どうやう》に叱咤《しつた》操縦せるお加女《かめ》夫人にてぞありける、昨夜の趣にては、年に一度の天長節は歌舞伎座に蓮歩《れんぽ》を移し給ふこと何年ともなき不文憲法と拝聴致せしに、如何《いか》なる協商の一夜の中に成立したればか、耶蘇《ヤソ》の会合などへは臨席し給ひけん、
> 今日を晴れと着飾り塗り飾りたる長谷川牧師の夫人は、一ときは嬌笑《けうせう》を装ひて「奥様《おくさん》が今日御出席下ださいましたことは教会に取つて、何と云ふ光栄で御座いませう、御多用の御体で在《い》らつしやいますから、兎《と》ても六《むつ》ヶ|敷《し》いことと一同|断念《あきら》めて居たので御座いますよ、能《よ》くまア、奥様御都合がおつきなさいましたことネ――山木家は永阪教会に取つては根でもあり、花でもありなので御座いまする上に、此の稀《まれ》な紀念会を御家の御別荘で開くことが出来、奥様の御出席をも得たと云ふ、此様《こん》な嬉しいことは覚えませぬので、心《しん》から神様に感謝致すので御座いますよ、ホヽヽヽ」
お加女夫人は例の抜き襟一番「教会へもネ、平生《しよつちゆう》参りたいツて言ふんで御座いますよ、けれども御存知《ごぞんじ》下ださいます通り家の内外《うちそと》、忙しいもンですから、思ふばかりで一寸《ちつと》も出られないので御座いますから、嬢等《むすめども》にもネ、阿母《おつかさん》は兎《と》ても参つて居《を》られないから、お前方《まへがた》は阿母の代りまで勤めねばなりませんと申すので御座いますよ、ほんとに皆様《みなさん》の御体が御羨《おうらやま》しう御座いますことネ、ですから、貴女《あなた》、婦人会の方などもネ、会長なんて大した名前を頂戴《ちやうだい》して居りましても何の御役にも立ちませず、一切皆様に願つて居る様な始末でしてネ、ほんとにお顔向けも出来ないので御座いますよオホヽヽヽ」
「アラ、奥様《おくさん》勿体ないこと、奥様の信仰の堅くて在《い》らつしやいますことは、良人《やど》が毎々《つねづね》御噂申上げるので御座いましてネ、お前などはホンとに意気地《いくぢ》が無くて可《い》けないツて、貴女、其の度《たんび》に御小言《おこごと》を頂戴致しましてネ、家庭の能《よ》く治まつて、良人《をつと》に不平を抱《いだ》かせず、子女《こども》を立派に教育するのが主婦たるものの名誉だから、兎《と》ても及びも着かぬことではあるが、チと山木の奥様《おくさん》を見傚《みなら》ふ様にツて言はれるんですよ、御一家《ごいつけ》皆《みん》な信者で在《い》らつしやいまして、慈善事業と言へば御関係なさらぬはなく、ほんたうにクリスチヤンの理想の家庭と言へば山木様のやうなんでせう、――ねエ皆さん」
一同シナを作つて「ほんたうに長谷川の奥様《おくさん》の仰つしやいます通りで御座いますよ、オホヽヽヽヽヽヽ」
驚《おどろい》て、更に視線を転ずれば、太き松の根方に設けたる葭簀《よしず》の蔭に、しきりに此方《こなた》を見ては私語しつゝある五六の婦人を発見せり、中に一人|年老《としと》れるは則《すなは》ち先きに篠田長二の陋屋《ろうをく》にて識《し》る人となれる渡辺の老女なり「井上の奥様《おくさん》、一寸御覧なさい、牧師さんの奥様が、きつと又た例の諂諛《おべつか》を並べ立ててるんですよ、それに軽野《かるの》の奥様《おくさん》、薄井《うすゐ》の嬢様《ぢやうさん》、皆様お揃《そろ》ひで」
井上の奥様《おくさん》と呼ばれたる四十|許《ばか》りの婦人、少しケンある眼に打ち見遣《みや》りつ「申しては失礼ですけれど、あれが牧師の妻君などとは信者全体の汚涜《けがれ》です、なにも山木様の別荘なぞ借りなくとも、親睦会は出来るんです、実に気色に障《さ》はりますけれどネ、教会の御祝だと思ふから忍んで参つたのです――其れはサウと、老女《おば》さん、篠田様《しのださん》は今日御見えになるでせうか、ほんとに、御気の毒で、私《わたし》ネ、篠田様のこと思ふと腹が立つ涙が出る、夜も平穏《おつちり》と眠《ね》られないんです、紀念式にも咋夜の演説会にも彼《あ》の通り行らしつて、平生《いつも》の通り聴《きい》てらツしやるでせう、自分が逐《お》ひ出されると内定《きま》つて
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