に嬉しげに莞爾《にこり》御笑ひ遊ばしてネ、先生、私は今も彼《あ》の時の御顔が目にアリ/\と見えるのです、其れから今度は梅子をと仰つしやいますからネ、未《ま》だ頑是《ぐわんぜ》ない三歳《みつ》の春の御嬢様を、私がお抱き申して枕頭《まくらもと》へ参りますとネ、細ウいお手に、楓《もみぢ》の様な可愛いお手をお取りなすつて、梅ちやんと一と声遊ばしましたがネ、お嬢様が平生《いつも》の様に未だ片言交《かたことまじ》りに、母ちやんと御返事なさいますとネ、――ジツと凝視《みつめ》て在《い》らしつた奥様のお目から玉の様な涙が泉の様に――」
「アヽ、思へば、先生」と老女は涙押し拭《ぬぐ》ひつ「未《ま》だ昨日の様で御座いますが、モウ二たむかし、其の時此の婆のお抱き申した赤児様《あかさま》が、今の立派な梅子さんです、御容姿《ごきりやう》なら御学問なら、御気象なら何《いづ》れ阿母《おつか》さんに立ち勝《まさ》つて、彼様《ああ》して世間《よのなか》の花とも、教会の光とも敬はれて在《い》らつしやるに、阿父《おとうさん》の御様子ツたら、まア何事で御座います、臨終《いまは》の奥様に御誓ひなされた神様への節操《みさを》が、何所《どこ》に残つて居りますか」
老女は急に気を変へて、打ちほゝ笑み「まア、先生、朝ツぱらから此様《こんな》愚痴を申して済みませぬが、考へて見ますと、成程女と云ふものは悪魔かも知れませぬのねエ、山木様も奥様のお亡《なくな》りなされた当分は、我家の燈《ともしび》が消えたと云つて愁歎《しうたん》して在《い》らしたのですよ、紀念《かたみ》の梅子を男の手で立派に養育して、雪子の恩に酬ゆるなんて吹聴《ふいちやう》して在らつしやいましたがネ、其れが貴郎《あなた》、あの投機師《やまし》の大洞《おほほら》利八と知り合におなりなすつたのが抑《そも/\》で、大洞も山木様の才気に目を着け、演説や新聞で飯の食《くへ》るものぢや無い、是《こ》れからの世の中は金だからつてんでネ、御馳走《ごちそう》はする、贅沢《ぜいたく》はして見せる、其れに貴郎、鰥《やもめ》と云ふ所を見込んでネ、丁度|俳優《やくしや》とドウとかで、離縁されてた大洞の妹を山木さんにくつ付けたんですよ、ほんたうにまア、ヒドいぢやありませんか、其れが、貴郎《あなた》、今の奥様のです、だから二た言目には此の山木の財産《しんだい》は己《おれ》の物だつて威張るので、あんな高慢な山木様も、家内《うち》では頭が上がらないさうです、――先生、外国人は矢ツ張り目が肥《こ》えて居りますのネ、ゼームスつて彼《あ》の洋琴《オルガン》を寄附した宣教師さんがネ、米国《くに》へ帰る時、前《ぜん》の奥様に呉々《くれぐれ》も仰つしやつたさうですよ、山木様は余り悧巧《りかう》だから、貴女《あなた》が常に気を付けて過失《あやまち》の無い様にせねばならない、基督《キリスト》の御弟子の中で一番悧巧であつたものが、主《しゆ》を三十両で売り渡したイスカリヲテのユダなのだからツてネ、ほんとに先生、さうで御座いますよ、――何の蚊《か》のと角《かど》ばつたことは申しますがネ、もう/\女の言ふなり次第なものです、考へて見ると世の中に、男ほど意気地《いくぢ》の無いものは御座いませんのねエ」
是れは飛んだことをと、言ひ放つて老女は、窃《そつ》と見上げぬ、
「実に御辞《おことば》の通りです」と篠田は首肯《うなづ》き「けれど老女《おば》さん、真実我を支配する婦人の在ることは、男児《をとこ》に取つて無上の歓楽では無いでせうか」
老女は只だ怪訝顔《けげんがほ》、
四
山木剛造は今しも晩餐《ばんさん》を終りしならん、大きなる熊の毛皮にドツかと胡座《あぐら》かきて、仰げる広き額には微醺《びくん》の色を帯びて、カンカンと輝ける洋燈《ランプ》の光に照れり、
茶をすゝむる妻の小皺《こじわ》著《いちじるし》き顔をテカ/\と磨きて、忌《いまは》しき迄|艶装《わかづくり》せる姿をジロリ/\とながめつゝ「ぢやア、お加女《かめ》、つまり何《どう》するツて云ふんだ、梅の望《のぞみ》は」
妻のお加女はチヨイと抜《ぬ》き襟《えり》して「どうするにも、かうするにも、我夫《あなた》、てんで訳が解つたもンぢやありませんやネ、女がなまなか学問なんかすると彼様《あんな》になるものかと愛想が尽きますよ、何卒《どうぞ》芳子にはモウ学問など真平《まつぴら》御免ですよ、チヨツ、親を馬鹿にして」
「何だか少しも解らないなア」
「其りやお解になりますまいよ、どうせ何にも知らない継母《まゝはゝ》の言ふことなどを、お聴き遊ばす御嬢様ぢや無いんですから――我夫《あなた》から直《ぢか》にお指図なさるが可《よ》う御座んすよ、其の為めの男親でさアね」
剛造の太き眉根《まゆね》ビクリ動きしが、温茶《ぬるちや
前へ
次へ
全74ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング