み締めて声立てじと怺《こら》へぬ、
「何も仰《おつ》しやつて下ださいますな」と篠田は目を閉ぢつ「現社会の基礎に斧《をの》を置きつゝある私共が、其の反撃に逢《あ》ふのは、毫《すこし》も怪むに足らぬことで御座います」
「けれど、篠田さん、貴所《あなた》は今ま御自愛なさらねばならぬ御体で御座いませう」梅子の一語には満身の力《ちから》溢《あふ》れて聞こえぬ、
「自愛致すとは」と、篠田は訝《いぶか》る、
「此儘《このまゝ》篠田さん」と梅子は却《かへつ》て怪みつ「貴所《あなた》は入獄なさるので御座いますか」
「左様《さう》です、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう」
「けれど――従来《これまで》、愚父《ちゝ》などの話に依りますれば、貴所《あなた》のやうな方は、監獄内で不測の災禍にお罹《かゝ》りなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、暫《しばら》く日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふ例《ためし》もあるやうで御座いますから」
「梅子さん、御厚誼《ごかうぎ》は謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に拘引《こういん》と確定しましたからは、今|斯《か》くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――若《も》し私|一己《いつこ》の野心から申すならば、今ま空《むな》しく牢獄に囚《とら》はれて、特に只今《たゞいま》御話の如き暴行は、随分各国の獄裡《ごくり》に実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、乍併《しかしながら》、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、眇《べう》たる此一身に取《とつ》て此上《こよ》なき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、尚《な》ほ心術を誤解して居るものが尠《すくな》くないので御座いますから――」
 篠田は語り来つて、急に言葉を更《あらた》め「余り自身のことを語り過ぎましたが、其よりも貴嬢《あなた》の将来こそ問題でせう、実は先頃剛一君とも一寸御話致したことでありましたが」
 梅子の面《かほ》は真紅《しんく》を染めぬ「有難う御座います、貴所《あなた》の温和の御精神をお聴致すに就《つ》け何と云ふ私の恐ろしい心で御座いませう、――私は篠田さん、ほんたうに懺悔《ざんげ》致しました、そして決心致したので御座います、私は兼ねて愚父《ちゝ》から多少の地所と財産とを譲り受けて居りまするので、所詮《しよせん》不義の結果の財産のですから、一には贖罪《しよくざい》の為め、此の身と併《あは》せて貧民教育に貢献したいと考へて居たので御座いますが、今度|愈々《いよ/\》着手致すことに決心しまして御座います、申す迄もなく、只だ貴所《あなた》の御指揮《ごさしづ》をと其れのみ心頼《こゝろたのみ》で御座いましたものを、――」
「ア、其れで安心致しました」と、篠田は晴々《はればれ》と微笑を洩せり「梅子さん、誠に良き御計画で御座います、若《も》し私が自由の身で在りませうならば、充分御協議致しまして聊《いさゝ》か理想を実行して見たいのでありますが――然《し》かし決して御心配なさいますな、社会主義倶楽部の諸君は、無論|満腔《まんかう》の尊敬と同情とを以て、貴嬢《あなた》の御事業を賛助致しませう」
 篠田の面《かほ》は輝き来れり「梅子さん、教会の為の宗教は未練なくお棄てなさい、原因を治《をさ》めない慈善事業は偽善者に御一任なさい、富の集中、富の不平均、是《こ》れが単一なる物質的問題とは何事です、富資《とみ》が年々増殖して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の現象がありますか、御覧なさい、今日の生活の原則は一に掠奪《りやくだつ》です、個人は個人を掠奪して居る、国は国を掠奪して居る、刑法が言ふ所の窃盗《せつたう》、彼は児戯《じぎ》です、神の見給ふ窃盗とは則《すなは》ち、今日の社会が尤《もつと》も尊敬して居る法律と愛国心です、所有権の神聖、兵役の義務、足れ皆な窃盗掠奪の符調に過ぎないのです、而《し》かも是れが為めに尤も悩んで居るものは、梅子さん、実に女性《によしやう》でありますよ、社会主義とは何ですか、一言《いちごん》に掩《おほ》へば神の御心です、基督《キリスト》が道破し給へる神の御心です」
 彼は机上の一冊を右手《めて》に捧げつ「何卒、梅子さん、呉々《くれ/″\》も是《これ》の御研究をお忘れないことを望みます、人生の奥義《あうぎ》は此の些《さゝや》かなる新約書の中に溢《あふ》れて、汲《く》めども尽くることは無いでありませう、――アヽ、梅子さん、何卒《どうぞ》我国に於《お》ける、社会主義の母《マザア》となつて下ださい、母《マザア》と
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