なつて下ださい、是れが篠田長二|畢生《ひつせい》の御願であります」
梅子は涙|堰《せ》きも敢《あ》へず、
隣房の時計、二ツ鳴りぬ、アヽ、
「最早《もう》、二時」と、梅子は頭《かしら》を垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に二時を経過せるなり、曙光《しよくわう》差し来《きた》るの時は、則《すなは》ち篠田が暗黒の底に投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶《はんもん》を此の一夜《いちや》に打ち明かして、柔《やさ》しく嬉《うれ》しく勇ましき丈夫の心をも聴くことを得たる今は、又た何をか思ひ残さん、いざ、立ち帰りなんか、――帰りとも無し、
胸も張り裂けんばかりの新しき苦悩を集中して、梅子は凝乎《じつ》と篠田を仰ぎ見ぬ、
両個《ふたり》相見て言葉なし、
良久《しばら》くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女《かれ》は唇を噛んで俯《うつむ》きぬ、
突如、温《あたゝか》き手は来つて梅子の右掌《めて》を緊《しか》と握れり、彼女《かれ》は総身の熱血、一時に沸騰《ふつとう》すると覚えて、恐ろしきまでに戦慄《せんりつ》せり、額を上ぐれば、篠田の両眼は日の如く輝きて直ぐ前に懸《かゝ》れり、
篠田は一倍の力を加へつ「梅子さん――此れは未《いま》だ曾《かつ》て一点の汚《けがれ》だも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴嬢《あなた》の手に捧げます」
梅子は左手《ゆんで》を加へて篠田の右手《めて》を抱きつ、一語も無くて身を其上に投げぬ、
風も寝《い》ね雪も眠りて夜は只だ森々《しん/\》たり、
既にして梅子は涙の顔を擡《もた》げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは存じませぬが、暫時《しばし》御身《おんみ》を潜めて下ださることはかなひませぬか、――別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせう――犬に真珠をお投げなさらずとも――」
篠田は首打ち掉《ふ》りつ「如何《いか》なる場合に身を棄つべきかは、我等が浅慮の判別し得る所ではありませぬ」
「篠田さん、最早《もう》決して弱き心は持ちませぬ」と梅子も今は心|決《き》めつ「何時と云ふ限《かぎり》も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只今の御一言を私の生命《いのち》に致しまして――で、御一身上、私が承つて置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒《どうぞ》仰しやつて下ださいませんか――」
篠田は暫《し》ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますから」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、
声を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得ずして打ち伏しぬ、
「梅子さん、此の老女を労《いたは》つて下ださい、是れは先頃|芸妓殺《げいぎころし》と唄《うた》はれた、兼吉と云ふ私の友達の実母です、――老母《おつかさん》、私は、或は明日から他行《たぎやう》するも知れないが、少しも心置なく此の令嬢《かた》に御信頼《おたより》なさい、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、其れに若《も》し両個《ふたり》が相許るすならば、花ちやんと結婚したらばと思つて居るのです、元より強ふることは出来ないですが」
篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするが、花と云ふ婦人が在《あ》るのです、元《も》と芸妓《げいしや》でありまするが、余程精神の強固なのですから、将来|貴嬢《あなた》の御事業の御手助となるも知れませぬ、」
梅子は思はず赧然《たんぜん》として愧《は》ぢぬ、彼女《かれ》の良心は私語《さゝや》けり、汝《なんぢ》曾《かつ》て其の婦人の為めに心に嫉妬《しつと》てふ経験を嘗《な》めしに非ずやと、
兼吉の老母は正体なき迄《まで》に咽《むせ》び泣きつ、
「其から梅子さん、私一身上の御依頼が御座いますが」と、篠田は悄然《せうぜん》として眼《まなこ》を閉ぢぬ、
「私に一人の伯母があるのです、世を厭《いと》うて秩父の山奥に孤独《ひとり》して居ります、今年既に七十を越して、尚《な》ほ钁鑠《くわくしやく》としては居りますが、一朝私の奇禍《きくわ》を伝へ聞ませうならば――」語断えて涙|滴々《てき/\》、
梅子は耐《こら》へず膝《ひざ》に縋《すが》れり、「御安心下ださいまし――、何卒御安心下さいまし――」
篠田は梅子の肩、両手《もろて》に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいますな――アヽ今こそ此心晴れ渡りて、一点|憂愁《いうしう》の浮雲《ふうん》をも認めませぬ、――然らば梅子さん、是れでお訣別《わかれ》致します」
「――心は永久に同住《ひとつ》で御座います」
「勿論《もちろん》」
* * *
空は何時しか晴れぬ、陰暦の何日《いつか》なるらん半ば欠けたる月、槻《けやき》の巨木、花咲きたらん如き白き梢《こずゑ》に懸《かゝ》りて、顧《かへり》み勝ちに行く梅子の影を積れる雪の上に見せぬ、
三十
前へ
次へ
全74ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング