け、樹《こ》の間《ま》をくぐり芝生を辿《たど》り、手を振り体《たい》を練りつゝ篠田は静かに歩みを運び来《きた》る、市《いち》に見る職工の筒袖《つつそで》、古画に見る予言者の頬鬚《ほほひげ》、
「先生、渡辺の老女《おば》さんがお待ちなされてです」と呼ばれる大和の声に、彼は沈思の面《おもて》を揚げて「其れは誠に申訳がありませんでした」
「イヽエ、先生どう致しまして」と老女は縁の障子《しやうじ》を開けぬ、
 彼は書斎へ老女を招致せり、新古の書巻|僅《わづか》に膝を容《い》るゝばかりに堆積散乱して、只《た》だ壁間モーゼ火中に神と語るの一画を掛くるあるのみ、
「毎度皆様の御厄介に成りまするので、実に恐縮に存じます」
 老女は手もて之ぞ遮《さへぎ》り「なんの先生、貴郎《あなた》に奥さんのお出来なさる迄は婦人会の方で及ばずながら御世話しようツて、皆さんの御気込《おきご》ですから――」
「しかし老女《おば》さん、最も良き妻を持つ世界の最も幸福なる人よりも、私の方が更に幸福の様に思ひますよ」彼は茶を喫《きつ》しつゝ斯《か》く言ひて軽く笑ふ、
「飛んだこと、何《ど》んなダラシの無い奥様でも、まさか十月になる迄、旦那様に単衣《ひとへ》をお着せ申しては置きませんからネ」とハツハ/\と老女は笑ひ興ず、
「クス/\」と隣室に漏るゝ大和の忍び笑に、老女は驚いて急に口を掩《おほ》ひ「まア、先生、御免遊ばせ、年を取ると無遠慮になりまして、御無礼ばかりして自分ながら愛想が尽きましてネ」
 言ひながら、ツイと少しく膝《ひざ》乗り出だし、声さへ俄《にはか》に打ちひそめて「ほんとにまア、先生、大変なことに成つて仕舞《しま》ひましたのねエ、――昨夜もネ、井上の奥さんが先生の御羽織が出来たからつて持つていらつしやいまして、其の御話なんです、私《わたし》はネ、そんなことがあるもんですか、今《い》ま先生をそんなことが出来るもんですかつて申しました所が、井上の奥様がサウぢやない、是れ/\の話でツて、私なぞには解からぬ何か六《むづ》ヶ|敷《しい》事《こと》仰《お》つしやいましてネ、其れでモウ内相談が定《き》まつて、来月三日の教会の廿五年の御祝が済むと、表沙汰《おもてざた》にするんだと仰《お》つしやるぢやありませんか、井上の奥さんは彼《あ》ア云ふ気象の方なもんですから大変に御腹立でしてネ、カウ云ふ時に婦人会が少し威張らねばならねのだけれど、会長が何しても山木さんで、副会長が牧師の奥さんと来て居るんだから、手の出し様が無いツて、涙を流して怒つて居らつしやるのです、私も驚いてしまひましてネ、明日は早朝に参つて先生の御量見を伺ひませうツてお別れしたのです、先生まア何《ど》うしたら可《い》いので御座いませう」
 懸河《けんが》滔々《たう/\》たる老女の能弁を鬚《ひげ》を弄しつゝ聴き居たる篠田
「老女《おば》さん、其れは何事ですか、私《わたし》には毫《すこし》もわかりませぬが」
「先生、何です御わかりになりませぬ――まア驚いたこと――先生、貴郎《あなた》を教会から逐《お》ひ出す相談のあるのを未《ま》だ御存知ないのですか」
「あア、其《それ》ですか」と篠田の軽く首肯《うなづ》くを、老女は黙つて穴の開《あく》ばかりに見つめたり、

     三の二

 渡辺の老女は不平を頬に膨《ふく》らして「あア其れですかどころぢや有りませんよ、先生、貴郎《あなた》が今《い》ま厳乎《しつかり》して下ださらねば、永阪教会も廿五年の御祝で死んで仕舞ひます、御祝だやら御弔《おとむらひ》だやら訳が解《わ》からなくなるぢやありませんか、貴郎《あなた》ネ、井上の奥様《おくさん》の御話では青年会の方々も大層な意気込で、若《も》し篠田さんを逐ひ出すなら、自分等も一所に退会するツてネ、井上|様《さん》の与重《よぢゆう》さん杯《など》先達《せんだつ》で相談最中なさうですよ、先生、何《ど》うして下ださる御思召《おぼしめし》ですか」
 篠田は僅《わづか》に口を開きぬ「私《わたし》の故に数々《しば/\》教会に御迷惑ばかり掛けて、実に耻入《はぢい》る次第であります、私を除名すると云ふ動機――其の因縁《いんねん》は知りませぬが、又たそれを根掘りするにも及びませぬが、しかし其表面の理由が、私の信仰が間違つて居るから教会に置くことならぬと云ふのならば、老女《おば》さん、私は残念ながら苦情を申出《まうしいで》る力が無いのです、教会の言ふ所と私の信仰とは慥《たしか》に違つて居るのですから――けれど、老女さん教会の言ふ所と私の信仰と、何《どち》らが神様の御思召に近いかと云ふ段になると、其を裁判するのは只だ神様ばかりです、只だ御互に気を付けたいのは、斯様《かやう》なる紛擾《ごた/\》の時に真実、神の子らしく、基督《キリスト》の信者らしく謙遜《けんそん》
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